映画「地獄の黙示録」で描かれているような人間の狂気を見ると
いずれにしても
人間の狂気の「容れ物」が必要なのではないかと思われる
宗教がそうだし
戦争がそうだ
それが「妄想の容れ物」である
幻想が共有された時
人間の内部の個人的な幻想は
とても落ち着く
もちろん、個人的な幻想と共有の幻想との間には差異があるのだが
共有の幻想が強力であれば
差異は吸収されて、共有の幻想だけで有が足りる
しかしまた合理的に考えると
共有の幻想同士の「強度」が比較されるように思うのだが
これについては、個人の内部での偶然の出会いのほうが大きな要素だと思う
親が信仰していたからとか
若いころに新自由主義に出会ったとかあるいはマルクス主義に出会ったとか
そうした偶然の要素が大きいと思う
福音派などは何も考えないから福音派を親から受け継いでいるのだろうと思う
逆に、ある種の共有の幻想に、強い反感を持つ個人的な体験もあるだろう
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簡単に言うと、
人間はある個人的な信念を抱き、
その信念を現実と照合して、
食い違いがあれば、訂正し、また新しい信念を抱く
その繰り返しで個人的な信念を育ててゆく
うまい具合に現実とピッタリの信念に行き着いた場合は
現実適応が良くなる
現実とピッタリの信念に至るには
もともとの思いつきが現実とよく一致していたか
または訂正機能が優秀で最終的に現実によく一致した信念に至るかである
しかしながらそのような地道な訂正プロセスは誰にとっても苦痛である
少しずつ自分を否定してゆくことだからである
それならば、一挙に「真理」に到達したいと思うだろう。
そう思った時に、福音派もカトリックも、カトリックとマルクス主義の混合物も、その他いろいろ用意されている
また新自由主義でも社会民主主義でも帝国主義でも、差別主義とか現代型仏教とかも用意されている
そうした既成の「容れ物」に頼ってしまえば話は早い
現実と照合して一歩一歩進む必要はなくなる
ただしその場合は自分で歩くことをやめた
蟻塚の蟻である