ヤスパースは了解と説明という方法を採用して
了解できるものは神経症で
了解はできないが説明できるものが精神病だろうと議論したわけだが
主な問題点は
了解は個人の勝手であって
了解できるもできないも何の基準もないということだ
その点はヤスパースも当然考慮している
情報が多い方が了解可能性が高まることが多い
たとえば平面に点があるとして
何の絵か最初は分からない
次第に点が増えると何の絵か了解できるようになっていく
情報が少ないうちは了解可能であったのに
情報が多くなるにつれて了解不能になる例もある
たとえば平面の上に点が5つあるとして
単純に言えば
円だろうとか五角形だろうとか星形だろうとか推定する
どれであろうと解釈する人がそのように了解したのならそれでいいことになる
だんだん情報が増えてきて点の数が増えると
単純に円でもなく五角形でもなくなるので
解釈は誤りで了解はできないものであったことが分かる
このあたりから考えてみれば
了解可能かどうかと言うことは
大半が解釈する側の問題だろうとも思われる
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実際の了解にはレベルがある
たとえば脳のどのくらい基本的な基底的な部分での了解か
ということが問題になる
新鮮な野菜や花ならばたいていの人は好むだろう
しかしキリスト教的な意味づけがあってはじめて了解できるものとか
地域の伝承があって初めて意味づけが了解できるものとか
そんなものに非常に多く取り囲まれているのが人間の現実である
コマーシャルをすると言うことは大半が
無意味なものに意味を付与すると言うことだ
昔の安定した村落社会でならば
安定して意味のシステムがあっただろうと思う
しかし現代の飛行機移動+ネット社会では
社会規範の規範部分が大幅に流動的でお互いに翻訳不可能である場合も多い
イスラム教の人の適応障害を診断治療するとして
内部の習慣や考え方に精通していないと
難しいだろう
そのようなローカル規範を持つ社会が沢山発生していて
個人はひとつの規範だけに忠誠を誓うのではなく
いろいろな規範集団に一時的に部分的に参加している
そんなわけで了解はますます難しくなっている
あるいは了解は浅くならざるを得ない
多文化を横断するような立場にいると
いったん了解を停止して環境と個人の適応だけを診断する立場になるだろう
本人が耐え難いと言えば耐え難いのであって不適応反応なのである
そこには価値判断は含まれない
たとえば認知行動療法の場面でも
考え方を柔軟にしましょうという限りは価値から中立的でいられる
いられるのだが
その場合、了解という立場からは離れていることを感じる