示準化石

2012-8-31 夏の夜の終わり、真夏の夜の夢を見る
ラジオでは大滝詠一の歌を特集していたらしい

夢のなかでその歌を聞いていた
夢らしく豪華な顔ぶれで
学園祭らしいのだがフレディ・マーキュリーが素晴らしい歌唱を繰り広げていた
この人は高校生の時からすごいんだねとみんなで絶賛した

高校生・松井とか高校生・松坂とか、昔の甲子園のヒーローもいる

今考えると一度目の夢なのだけれど
見ていた時には二度目の夢と意識されていて
そして一度目の夢と二度目の夢の類似と相違について意識していた

ーー
歌謡曲には示準化石のような効果があって
たとえば大滝詠一がそうだ
あの季節、あの海辺、あの人、あの歌、と強く印象に残っている

その他では
ユーミンの海を見ていた午後
ユーミンのパール・ピアス
井上陽水のリバーサイド・ホテル
井上陽水のいっそセレナーデ
寺尾聡のうた、高速の車内で何度も聞いていた
ユーミンの天国への門
なぜだか森高千里
すべて特定の状況と人と出来事がセットになって強い感情を引き起こす

その他ではモーツァルトのクラリネット五重奏曲がある
その人は隣の席でぐっすり寝ていた
そのころ私たちは夢に向かって疲れていた

ーー
いかに生きるかと考えた時
簡単に「この職業でそれなりに一所懸命です」と説明して
他人はもちろんだが自分をも納得させられそうになる時もあるのだが
本当はそうではない

それは世の中のどこに生きているかの番地のようなもので、 
いかに生きているかの熱というか方向を示してはいない

その意味で私は不満なのであって
むしろ踏み外して生きていたほうが
下地にある生きる態度が見えるような気がしたりもする

歌の世界は歌の世界なのであって
それはあくまでも言葉で織り成した夢なのだと
もっとよく知っていればよかった

私は本当はこの世界を夢のように生きたかった
現実のように生きることは誰かがやるだろう、それでよい
私は夢のように生きたかった

しかしそれはなかなか難しかった

ーー
そしていま残骸のように懐かしむのは示準化石である
あの頃の一部が、時にはすべてが、時間の缶詰を開けた時のように、一挙に蘇る

ーー
いかに生きるかを考えた時
自分に言いわけがないこともわかる

マザーテレサのように聖人のように生きて
人からもそのように思われていた人が
日記の中で、私はどうしても神の実在を信じることができない、と
実に初歩的な、そしてかつ最終的な問いを書き記している。それも最晩年である。
そのようにして、生きる態度、生き方というものは日々検証されるものなのだと思う