偶然で始まった人生は必然的な死で終わる

"われわれがそれぞれの親の下に生まれ、
それぞれの環境を与えられて育つ
それは偶然である

たとえば、一冊の本もなく、新聞もなく、
農作業に明け暮れ、貧しく食卓を囲み、この世界の栄華とは
全く無縁の幼年時代を過ごす、ただし厳しい自然にも美しい自然にも恵まれていた
それも偶然である
自分で選ぶことができるものではない

成長するに連れて、
自分の意志で選択した部分も大きいと言うだろうが
そうした意志を形成したのは偶然の積み重ねである

人間は必然を信じることで安心しようとするものだが
しかし安心できるような必然はどこもない
偶然の寄せ集めで人生は進行しているといえるだろう

一般に宗教は低次元であればあるほど
必然を人に示すものであるが
高級宗教になればそのような要素は少なくなってゆく
神は沈黙しているという言い方で
偶然を、または、この世界の説明不可能を表現しているとも考えられる

しかしその一方で、
人生の最期は、事故か、病気か、運が良ければ老衰で、
平均で80歳、運が良ければ百歳を超えるが、百五十歳に届く人はいない
中にはずっと早く人生を終る人もいる
このように、終わり方はどのようであるか、という面では偶然であるが、
最終的に死ぬのだという点では必然であり、
その点だけは全員に平等に与えられた動かしがたい運命である

偶然で始まった人生は必然的な死で終わる
この理不尽な感覚は消しがたい

しかしまた、その点では平等でもあるといえる
ハプスブルグ家、メディチ家、ロックフェラー家、ロスチャイルド家、イギリス王室などから始まり、
我々のような庶民まで、なにも変わりはない
偶然で生まれ、必然で死ぬのである
その点は庶民の心の慰めになる

それではその人生で我々は何をなすべきなのだろうか
何をしても何をしなくても等価値なのだろうか
それともやはり何かをしたほうが価値が有るのだろうか

結論から言えば、何をしても、何をしなくても、
この宇宙の歴史の中で、ほとんど違いはなく、意味は無いと思う
違うのは、主観的な充実感だろう

友人が大切、愛情が大切、財産的保証も大切、生きがいが大切、健康が大切、心の持ち方が大切、
通常、人間が多数決で、大切というものは概ね何かの意味で大切である

それらの中で何を中心に考えるかも、
偶然の要素が強いだろうと思う

芸術に生きる人もいるし、政治に生きる人もいる、
それぞれに理由があり、歴史を紐解けば、なるほど無理もない選択であると納得もさせられる
しかしそのような偶然に埋没していいのだろうかとやはり考える

どの家に生まれたか、どんな人に出会ったかで人生は大きく方向づけられる
しかしそれは偶然でしかない
政治の世界に入って、国民を裏切ることを商売にしている人たちにも背景はあり理由はある
一概に軽蔑するものでもない

第一、一般庶民が、政治家二世や三世の立場になったら、もっとどぎつく立場を悪用するかもしれない
我々は皆その程度の存在なのである

だからこそ、大した悪いこともできない程度の家柄に生まれて調度良いのだ

偶然によって生まれ、必然によって死ぬと考えた時、
無力感に襲われる
たとえばノーベル賞を取ることを考えたとして、
その大発見も、いずれ誰かが発見することに過ぎない
歴史のページがめくられれば、いずれ誰かが到達する知識でしかないのである

その役割を偶然自分が担当したというだけである
それ以上のものではない

それぞれの人間に訪れる選択の時や決断の時、
我々は様々に神に試されているのだと考えるが、
結局何が神の問いかけへの応えとしてよいものなのか、にわかには判断できない
棺を覆うまでわからないとはよく言われるが
棺を覆っても、分かるものでもないし、確定するものでもないだろう

ただ。素朴な実感で言えば、素晴らしい生き方をしている先輩に出会って、
その様子を見ていた時、私は確実に教育されていたのだと思う

これはひとつの良い生き方ではないだろうかと提案されているように感じた
そしてそのままではないにしても、本質部分は真似をして生きたいと思う

そのような出会いも偶然でしかなく
その偶然に出会えた人は幸せで
その偶然に恵まれなかった人は幸せから少し遠いかもしれない

一面ではそのために高級宗教があるのだとも言えるだろう
実人生で出会うことができる人は限られている
人生の模範となり、師となる人に出会うことは、ないかもしれない
その場合でも、高級宗教の教えの中には真実の師が登場し、
このような生き方もできるのだと教えていると思う

生と死の考え方も、DNAの発見とその後の知見の蓄積によって大きく変わった
たとえば、生物個体はDNAの乗り物である
本質はDNAが累代にわたり続くことにある

生物の個体はDNAの乗り物であり、脳は個体の部品である

脳死が人間の死だなどという妄言は脳が考えているから脳中心になるにすぎない
DNAが発言できたらDNA中心主義を語るに決まっている
DNAを提供できるうちは生きているのだ、他のDNAを援助できるかぎりは生きているのだと言うだろう

DNAの立場から言えば、死はさほど重要ではない
自分が複製できればよいが
そうでなくても、近縁のものの中で適応の良いものをアシストできればそれで充分である
そこから利他主義の価値を数値で計算できる事にもなる

必然的な老いと病気と死と、どのように受容するか
落下する速度にブレーキをかけながら生きる

しかし、いかんともしがたい病老死に対して、どう向き合ったらいいものか
ひとつの態度として芸術がある
個体の死を超えるもの、時間が全てを崩壊させてゆくなかで踏みとどまる場所
それが芸術の場所だと思う

それは祈りや宗教と重なるものである

またたとえば男女の心中にも超越の契機が多分に含まれていると思う

今のところ考えているのは
人から人に手渡されてゆくもの
それが大事なんだということだ

手渡す側は渡すと思っていないかもしれない
しかし受け取る側は一生の刻印を受ける
"