バイロン・ケイテイ「ザ・ワーク」と認知行動療法

「それは本当でしょうか?」

「その考えが本当であると、絶対言い切れますか?」

「そう考えるとき、(あなたは)どのように反応しますか?」

「その考えがなければ、(あなたは)どうなりますか?」

――シンプルな4つの質問を投げかけるだけで、自分の中にある本当の答えを見出すことができる。

ーーー

私たちが感じるあらゆるストレスは、あるがままの現実に異を唱えることから引き起こされるのです。

世界にはたった三種類の領域しかありません。私の領域、あなたの領域、そして神の領域です。

私やあなた、みんながコントロールできないもの、それが神の領域です。

三つの領域を理解し、自分自身の領域にとどまれるようになれば、想像できないほど人生が解放されます。

苦しみの原因となるのは、考えそのものではなく、考えに対する執着です。

考えは、通り過ぎていくだけです。考えというものは、真実だと思い込んで執着しない限り、害はありません。

自分の考えをコントロールすることは誰にもできません。私は、自分の考えを手放すのではなく、理解します。そうすると、考えの方が、私を手放してくれるのです。雨のしずくに抵抗することはないでしょう?

現実だと信じ込んでいる考えを、私はよく、「ストーリー」と呼んでいます。

問いかけという方法を見つける前は、このようにどんどん浮かんでくる考えを止めようがなかった。

自分の考えについてワークをすることで、本当かどうかを検証してみることができます。

あなたの世界は、どれだけの検証していないストーリーから成り立っていますか?

「ワーク」の問いかけによって、自分の考えが真実ではないと気づけば、苦しみはなくなる。

すべての不快な感情の背後には、真実ではない考えが隠れています。

どんなストレスであっても、それは「あなたは夢の中にいますよ」と教えてくれる、思いやりのある目覚まし時計だと覚えておくと助けになります。

私たちは通常、自分の考えよりも感情にまず気づきます。だからこそ、ストレスになっている感情は、ワークの対象となる考えがあることを教えてくれる目覚まし時計なのです。

考えが発生する前は、苦しんでいなかったのです。考えをもつことによって、苦しむのです。

自分の考えが真実ではないと気づくことで、苦しみはなくなります。それがワークのしくみなのです。

ーーー
CBTの立場にうんと近い考えだと思います。事実と思考のズレがあってそこから問題が生じるというわけでしょう。一方、昔からの心理療法は心的現実とかの言葉で、直面化すると言うよりは、心的現実の内部で葛藤を緩和する方向なのかなと思います。CBTという準拠枠ができて現実と思考の違いを受け入れやすくなり、思考もただの思考なのだから流していこうと考えられるようになってきたと思う。昔は「ただの思考」だけどそう思う理由があるはずということで過去に遡っていたように思う。過去をほじくらないという態度は患者さんにとっては楽な面があると感じる。

現実にそぐわない、解決にも役立たない思考がどうしていつまでも出てくるのかということは、その人の未解決の葛藤課題が現在に突出して出ているということになる。それは現在の現実の反映と言うよりは、過去の未解決の葛藤の反映ということになる。

しかしそのような過去遡及的、過去に責任を負わせる考え方は、恣意的だし、証明できないし、誰かがそう言ったとしても、反証もできないもので、科学的命題とはいえないだろうということになる。そうすると、患者個人の内面の葛藤課題だけではなくて、治療者・解釈者の内面の都合までが絡んできてしまう。

このあたりのことはCBT的になって随分すっきりした感じはする。そのかわり、深遠さとかは失われた感じがする。CBTって技術者とかそんな感じに近い感じはする。たとえば人工透析の技術者とかに近い専門家。ユングの時代とかは人生についての深い洞察ととかの雰囲気を漂わせていたと思う。

アルツハイマーの介護の苦労の話で、介護する人はだいたいみんな、どうして忘れてしまうのか、病期の進行をなんとか遅くできないかと考える。しかし現実はアルツハイマーは無慈悲に進行する。すると介護者は苛立ったり抑うつ的になったりする。

これなどは介護者の心のなかと、現実が一致していないから起こる。努力すればアルツハイマーの進行を遅らせることができるというストーリーですね。

ある日、アルツハイマーの父親を乗せて自動車を運転していた。父親は息子だということは忘れていて、タクシーの運転手だと思って話していた。その運転手が家の中まで入ってきて、風呂にまで入れてくれた。父親は大いに感謝して、こんなに親切なタクシーの運転手は見たことがない、良い人だ。これからもよろしく頼む、という。では、これからもお世話しますということで、運転手みたいな帽子をかぶって運転しているんだという。すると父親はご機嫌。

どうせ進行するまでの時間を一緒に過ごすのだから、なるべく葛藤の少ない考え方で過ごしたほうがいいですよね。

変わらない現実はそのままにして、自分の内部のストーリーを現実に合わせて書き換える。

私たちの心を乱すのは、現実に起きていることではなく、起きていることに対する考えである。そういう面がありますね。

仏教系は昔からこんなことを提唱していたと思います。

ーー
何かの出来事があって、それをもう絶望だと解釈して落ち込んでいるという場合、
現実と考えが食い違っている、だからそこを訂正しようというのですが、
それができるのは昔で言う「うつ病」ではない。
その訂正ができないものを「うつ病」と呼んでいた。
しかし現在はDSMの各項目を検討して大うつ病と呼んでいい状態に含まれるだろう。

DSMでいう、不安・憂鬱系と何も楽しみを感じない系はやや別のもので、
失恋すれば憂うつで悲観的で考えもはかどらなくなるけれども、気晴らしを全く受け付けないということはないだろう
これは喪失反応系
また昔で言う本来のメランコリーとか「うつ病」という場合、何をしても全く楽しくないし、意味が無い、こうして苦しむことにも意味が無い、ということになる

喪失反応系のものはCBTのよい適応になるのだろう

そうではない、昔からの「うつ病」とかあるいは統合失調症の妄想や幻聴に対して、CBTでどう対処するかについては
試みの段階である。
昔からの「うつ病」にしても統合失調症にしても、また躁うつ病にしても、
そのような事態が起こった場合には、ストレスにさらされるわけだし、不安も広がる。
そこで発生しているストレスや不安に対処することはCBTでできることなのだから、
その点では役に立つ。
しかし病理の根本にCBTが有効かどうかということがチャレンジであると思う。
2016-03-07 11:48