採録
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北中淳子「うつの医療人類学」(1)「序章 うつと自殺の医療人類学」
著者は医療人類専攻のひと。医療人類学は「病や死、苦しみに関する文化を考察する学問」ということらしい。病気というものは、医学の見地からみれば世界に普遍的なものであるはずで、その治療法についてもどこでも共通のものがあるはずである。しかしそれは医学のなかでも「科学」としてあつかえる領域、つまりは「モノ」としての病に関する部分だけであって、「コト」としての病ということになればさまざまな地域の文化の影響を色濃くうけるのも当然である。人類学(特に文化人類学)は当然そういう方向からアプローチしていく学問である。 最初に「うつ病が世界的な流行をみせている」ということが書かれ、それの原因として、 1)不況が続くことにより社会的なストレスの増大している・・・しかし、不況の地域以外でもうつは増えている。 2)うつ病の科学的啓蒙が進んだ・・・しかし日本では啓蒙は以前からなされていた。 3)概念が変化した・・・アメリカ精神医学会による診断マニュアルで従来ならうつとはされなかったような状態もうつとされるようになったこと(医療化)が影響している可能性はある。しかしこのマニュアルの刊行とうつの流行にはタイムラグがある。 4)治療技術の進歩・・・副作用が少なく効果の高い抗うつ剤であるプロザックが開発され、製薬会社が患者の掘り起こしをおこなったこと。 などが原因としてあげられている。 人間であれば当然と思われる人生上のさまざまなできごとに対する反応を〈病気〉としてしまう「医療化」の動向には従来から批判がある。2013年に発表された最新のマニュアルDSM-5で「喪失の悲哀」までうつ病にふくめることにしたことについては大きな批判がおきている。 著者は、この15年間での日本での「うつ」の急速な増加は、決してバイオロジカルな還元主義の広まりを示すものではなく、新たなバイオソーシャルなうつ病理解が生まれてきていて、それにより、ある種の〈社会救済としての医療化〉が可能になってきていることを指摘している。それが本書のテーマの一つとなる。 日本の精神医療の特徴は、「個人の心理的葛藤」にのみ焦点を当てるのではなく、また「バイオロジカルな脳疾患」としてのみ語るのでもなく、「うつ」を「社会的なストレスの病」と位置づける点にあると著者はしている。その動向は現在の日本では司法や行政によって主導されており、「うつの個人を変えるだけではなく、社会をも変えていこう」という意識がそれにより醸成されてきている。そのことは、世界的にも先駆的な試みであると著者はしている。 過労とうつ病との関係がこれほどまでに強調されるようになったきたのは、日本の労働環境も関係している可能性が高い。過酷な労働現場により疾患となったひとの「社会的救済」への道をひらいたのが「日本のうつ病言説」の特徴であり、これが日本でのうつ病流行の第5の説明となる、と著者はしている。それにより、日本では「弱さ」に対する新たな共感が生まれつつあるのだという。 日本では以前には、精神医学に対する一般の人々の抵抗が強く、そのため治療の対象が重篤な患者に限定される傾向があった。アメリカでは広く受容された精神分析も一般社会には浸透しなかった。日本ではうつ病自体が問題となることもきわめて少なかった。「鬱」を病理とはみなさず、そこに美を見いだす文化的、身体的な感覚も日本にはあった。 鬱は人生の問題なのか病理なのかという問題があるが、日本では長らく自殺は自由意思の問題と捉えられてきた。 日本では、うつは心身一元論的な語りでしばしば述べられ、また仕事と直に結びつけられて論じられる傾向もある。 1900年代から30年代に日本で「流行」した「神経衰弱」はいまから遡って考えるとうつと何ら化の関係をもつ病態だったのかもしれない? うつがほとんど精神療法の対象とはされてこなかったのも日本の精神医療の特徴の一つである。 1990年代まで、日本の精神医学内でのうつ病論を特徴づけていたのは、「うつ病前性格論」(「執着気質」や「メランコリー親和型」)であった。これは日本とドイツの一部を除いてはほとんどきかれる説ではないにもかかわらず、日本では正統的な学説として圧倒的に支持されてきた。そこで想定されているうつ病患者は中高年のサラリーマンであった。そのため日本ではうつ病=男性というイメージがあるが、これは欧米のうつ病=女性という図式と対照的である。 日本におけるうつ病の言説のもうひとつの特徴はうつ病が社会病理として広く語られていることにある。個人の弱さや欠陥という視点ではなく、社会的状況に目をむけるという方向がそこにみてとれる。 「うつ」をなぜ自然科学で捉えるのではなく、人類学的・歴史的に捉えるのか、という点について、精神医学の対象自体が、自然科学的アプローチだけでは十分に理解できないものであるからと著者はしている。 ここで著者が持ち出すのがイアン・ハッキングの「何が社会的に構成されるのか」での「自然種」と「相互作用種」という概念である。「自然種」は「人間がそれにどう名づけ、定義づけ、介入しても対象自体がその影響を受けないようにみえるもの」である、「相互作用種」とは、その反対に「わたしたちの名づけ、定義づけ、介入によって、その影響を受けて対象も変わってしまうようなもの」をさす。科学者であれば、時代を超え、文化・社会を超えて、客観的かつ普遍的に存在する「うつ病」の「自然種」を捉えようとする。しかし、うつ病においては、ある人が自分はうつ病であると思うこと自体が精神科医の診断に影響し、精神科医のうつ病概念を変えていくということがおきる。つまりうつ病は観察者の外部に普遍的・伽感的に存在する中立的で確固たるモノとしてはうまく捉えられないということである。 これは精神医学が非科学的であるということではない。自然科学が前提とするモデルだけでは万全なものではないということである。 以上、序章の「うつと自殺の医療人類学」をまとめてみた。 ここまで読んできても、ここで論じられていることが、直前のエントリーでとりあげたニスベットの「木を見る西洋人 森を見る東洋人」と関連があることことは明かと思う。要するに、西洋人はうつ病患者個人という木しか見ないのに対して、東洋人はうつ病患者と社会とのかかわりという森を見る、という話である。そしてもっといえば、科学という西洋の見方には限界があるという話である。 ハッキングの「何が社会的に構成されるのか」は、危険・感情・知識・現実などといったものが社会的に構成されたものであるという主張の検討から本がはじまっているが、その中には病いという項目もあり、本文では当然、自然科学が検討されており、「イギリス人の報告するサルはどうしうもなく強情で、アメリカ人のそれはえげつないまでに進取の気性に富み、日本人が見たサルは身分の違いにうるさくかつ協調的、フランス人のサルは性関係が乱れ気味」などという冗談を紹介した後、物理学や化学、さらには分子生物学だってそうかもしれないぞというというように展開していく。そして第4章は「狂気」で、そのサブタイトルが「生物学的か構成されるのか」である。ここで「自然種」と「相互作用種」という概念が導入され、自然科学は自然種をあつかい、社会科学は「相互作用種」をあつかう、とされる。 こういう話をきくと、たいていの自分は自然科学者であると思っている人間は頭にくる。その典型が「悪魔に仕える牧師」に収載されている「何が真実か」という文でのドーキンスがしている「文化相対主義」への悪態である。そこで示される科学的真理への信頼(信仰?)はすさまじいもので、それを理解できないのは「そうでないようにしつけられているか、それよりよいものを知らなかっただけ」なのである。知ればかならず科学の方に転向するはずとドーキンスは固く信じている。そこで、ポパーやクーンの科学哲学も批判されている。これを読むかぎり、ドーキンスが本当にポパーを読んでいるのか疑問であるが(ポパーはここに描かれているようなシニックな見方をする人間ではない。なによりもシニックを嫌う人、科学への熱い情熱を持った人であり、相対主義を徹底して嫌った。ポパーは真理が存在することを確信していたが、われわれは真理に到達したとしてもそれが真理であることを知りえないとしたのであって、個々のひとにそれぞれの真実があって、そのどれが真理であるかは知りえない、あるいはそのどれもが個々のひとにとっての真実であるとしたのでは決してない)、真理が相対的である、あるいは文化に依存的であるという見方は多くの自然科学者を苛立たせるらしい。 本書を読んで一番驚いたのは、日本において精神医学の領域において何が真実?であるかを決めているのが、医者でもなくまた医療の問題を研究している学者でもなく、司法であり行政であるという指摘であった。現場にいて何か変だなという感じをいつも感じていたが、それがなぜおきるのかうまく理解できずにいたのだが、ようやく了解できるようになった。 社会のなかにおいてうつ病をこのようなものとして捉えていくという方向が司法により確定され、それに基づいて行政が現場を指導していくということで精神医療の大きな方向が作られていくということである。医学者のなかにはこのような見解がある、司法の判断としてはこうである、行政はこのような指導している、ということが並立してあるのではなく、医学者や医学研究者がどのようにいっているのであるとしても、それはそれとして、現場においてある事態がおきた場合には、このような考えのもとでやっていくという方向がすでに司法の判断として確立していて、それがある意味で精神医学界をも引っ張っているという現状である。相対的にいろいろな見方があるにもかかわらず、司法と行政が絶対的な強制力を持つ見方を採用したことによる影響がいろいろと及んできているということである。 行政が一つの価値判断から、入試の改革をしたり、ゆとり教育を導入しあり、メタボの健診を制度化したりといったことと同じ流れのなかの一つとして、社会を変えるための一つの方策としてメンタル不調を広義の労働環境問題としてとらえる視点が採用されている側面が間違いなくあるということを、本書を読んでいてようやく気がつくことができた。 より広い視点をとるなら、これから世界的に景気が停滞していくことが不安視され、どこでも労働環境が一層厳しくなっていくことが予想されるなかで、そこで生じてくるであろうさまざまな問題への一つのセーフティネットとして日本の司法や行政のやり方が世界でも先進的なとりくみとして機能していくのではないかということを著者は期待しているように思えた。 グローバル化というのはおそらく西欧化・アメリカ化の方向である。そのなかでは、メンタル不調もまた個人の責任とされていく可能性が高い。それとは違う見方がすでに現実に機能し定着しだしている日本のありかたは、個人だけの責任ではなく社会もまた責務を負う視点を持っている点で、今後、世界に発信していく価値のある方向を示していると著者はしている。 数年前から産業医療の現場にいて、うまく理解できないこと、整理できないことが多々あったが本書を読んで、ある程度、問題の相互の関係が呑み込めるようになったのは収穫であった。それで、以下、もう少し個別の問題を見ていく。
北中淳子「うつの医療人類学」(2)第1章「意志的な死」を診断する 第8章 自殺論
西洋においては、その宗教の伝統により、自殺は重大な罪であった。その中において自殺を脳の異常によるとする精神医学による「医療化」はある種の救済をもたらした。 一方、日本では、自殺は「死の作法」あるいは「意志的行為」として賞賛の対象にすらなった。それを究極の自由意志の発露とみなすある種の美意識が存在していた。そのため文化的自殺観からの「医療化」への抵抗があった。自殺をバイオロジカルな問題であるとする精神科医などからの主張に対しては、日本では早くから主として知識人からの文化的自殺観にもとづく懐疑論があった。 前世紀末から日本では自殺が急増しており、それにともない自殺の背景にはバイオロジカルな疾患の可能性があるという認識が広まってきた。しかし、それに対して、精神科医は何でも病気にしてしまうとか、そういう見方は自殺の実存的意味を抹消してしまうという反発もある。自殺についての議論は、文化や時代によって大きく変動する。 精神医学には精神療法的な見方とバイオロジカルな見方の二つがあり、つねに拮抗してきている。日本では「精神病は脳病」とするドイツ精神医学の伝統が強く、「内因」が重視された。死の希求を訴えるひとに、それは自分の意思ではなく病気がそのように思わせているのだと説得することは、自殺の予防に有効とされる。自殺をしようと思う自分は「本当の自分」ではないという認識をもてるようになることは、自殺企図の予防上、重要である。 著者がフィールドワークした精神療法を重視する大学の精神科でも、自殺未遂者へは身体的治療を重視し、精神療法的介入にはきわめて慎重であったという。一般的にも実存論的・精神療法的アプローチに潜む大きな危険性は様々なところで指摘されているし、希死念慮を持つ患者への共感は多くの場合、危険であることも知られている。患者の実存に深く踏み込んで患者を「救おう」とすることは「魔術的思考」であって、たとえ善意からであっても「人を変えよう」とすることには危険がつきまとうことについて、多くの精神科医が自覚的である。こころの「外科手術」は多くの場合、危険なのである。患者が永遠の自己分析にはいっていき心理学者になってしまうことは、それ自体が、ある意味での病気である。 医師の役割は体の病気の治療に限定されるのであり、患者の人生までも背負うことはできないという姿勢をとることは、自殺の予防の観点からは重要である。そういう場合、医師は意識的に「体」と「こころ」を分離していく。これは生物学主義ではなく、身体を通じることによりこころを回復させるというもので、ソマティズム(身体主義)とでも呼ぶべきある種の心身一元論的立場からの治療である。これは「バイオロジー」対「精神療法」という心身二元論に起因する二項対立を超える力を持つ可能性のある行き方である。精神障害は「疾病であり、性格であり、生き方であり、対人関係であり、社会病理でもある」のだから。 現在の精神医学ではバイオロジカル・オプティミズムの台頭が顕著であるが、自殺予防への向精神薬の有効性については議論のあるところである。様々な病気での末期の患者が抗うつ剤の投与で最後の数ヶ月を「よく」生きることがしばしばあることが報告されている。 現在では安楽死や尊厳死などの「みずからの死を選び取る権利」も大きな議論を呼んでいる。それの渦中にいる医者はもともと自殺率が高く、なかでも精神科医の自殺率は高い。 1998年以降の自殺の流行以来、精神医学的見地から自殺が語られることが多くなった。それはDSM3の普及もあるが、自殺が「社会的な病」として認識されるようになったことが大きい。過労自殺、過労うつ病をめぐる社会運動がそれを先取りした。現在ではうつ病や自殺が、産業構造の変化や長引く不況と直接結びつけて語られれている。精神障害の労災認定などは世界でも先駆的な救済システムである。 しかしストレスによって精神障害が引き起こされるというのは、科学的に確立された見解では決してない。そもそもストレスというのがきわめてあいまいな概念である。しかし、それでもこの現在の日本の動きは従来からの精神医学にある素因論を相対化させる力をもった。だが、環境を重視することは、主体がどう変わるかという視点を失わせがちでもある。 そういうなかで、従来の精神療法が必ずしも有効ではなかったこともあってでてきたのがリワークである。それは認知行動療法に基盤をおくので、環境自体の影響よりも、環境を個人がどう解釈するかという視点をとる。ふたたび環境から個人への回帰がおきてきているのかもしれない。 かつて過労死というと、なんで日本人はそんなにまでして働くのか?という疑問が海外からはでたが、近年では不況が世界化し、新自由主義経済によって職場環境が劇的に変化してくるなかで、ヨーロッパでも職場のストレスによる精神障害の報告が増えてきている。アジアでもまた同じ傾向がみられる。 西洋においては宗教的理由から自殺は否定されるべきものとされてきたとされているが、古代ローマにおいては決してそのようなことはなかったはずで、これはあくまでキリスト教が西欧の支配的な宗教となって以降ということであろう。 キリスト教というのは(あるいはその元になったユダヤ教、あるいはそれを規定した一神教)というのはある意味では異常な宗教であり、野蛮な感じというのを拭えない。一神教のなかではイスラム教は文明的という印象があったが(「アラビアン・ナイト」、「コーランか、剣か、納税か?」)、最近ではそうでもなくなってきているように思える。 そして、その異常を背景に「科学」もまた西欧に生まれた。とすれば、「科学」としての医学はその西洋の野蛮をひきついでいることも当然である。そもそも狭義の医学は、死なないことを目指すもので、人は死にたくない気持ちをもつことを当然の前提としているので、そうであるなら自殺などはありえないこととなり、それに直面すること自体が想定外である。 入院しているガンの末期の患者さんがパニック状態になったりすると、すぐに精神科医が呼ばれる。呼ばれた精神科の先生だって困るだろうと思う。何しろただでさえ自殺が多い医者という職種のなかでも精神科医はさらに自殺が多いのである。西洋ならこういうときに聖職者が呼ばれるらしい。日本ではキリスト教信者の場合にはそういうことがあるとしても、お坊さんが呼ばれることはないと思う(少なくともわたくしの場合は経験がない)。 わたくし自身の経験からすると、いわゆるターミナルの患者さんであっても、「死」をふくめて「人生」とか「実存」といった抽象的な問題について話したという経験は一度もない。現在ある症状をどうするかというようなことは話すが、予後についてはお互いになんとなく了解しているという前提で話題にはしない。最初に病状を説明するときには、現在のすでに進行した状態は今の医療の力では根治は期しがたい状況であること、そうはいっても医学的には説明できない経過で、そのような状態から「奇跡的な回復」した例も報告されていること、そのような例は患者や家族が病気に前向きに対応した場合に多くみられるようである、といった一般的な説明だけをすることが多い(それでも、わたくしが医者になった当時はがんの告知さえしないのが普通であっただから時代は変わったのだが。また現在の若い先生はあっけらかんと、あなたの予後は1年以内です。だから、今のうちにしたいことをしておいてください、などというようであるが)。 ただ本人も家族も医者が思うのよりもずっと長い予後と思っている場合が多い。病気が進行して、今日明日ということになったので、家族を呼びだして、「そろそろ厳しい状態です」と説明をすると、「では、あと1~2ヶ月でしょうか?」といった反応がかえってくることが多かった。こちらは「あと1~2日」というつもりでいっているのにである。そこにいきなり事実を告げると混乱するので、「1~2週間。最悪の場合は数日ということも」といった説明で対応していた。 患者さんの自殺企図というのは40年くらいの医者の経験で5例(未遂2例)である。そのうちで狭義のメンタルの方は2例。ともにうつであった。両方の例とも外来での接触は1~2回だけで、ともに30年くらい前の話である。会社の勧めで内科(?)を受診してきて、話をきいてこれは危ないと思い精神科への紹介状を書き、早急の受診を指示したが、そこに行く前に自殺してしまった例が1例(この例は後から会社の方に感謝された。受診をすすめ、精神科への受診の方向となっていたので、会社としてはとるべき対応をきちっとしていたので責任はない。精神科受診を薦めていただいていて本当によかったというようなことであった)。もう1例は、うつで休職中に、本人と会社の上司のかたが一緒に受診してきたケースで、上司の方は「こういう怠けによる休業をいつまでも認めていると、周囲のまじめに働いているものの志気が下がってしまう。なんとしてもそろそろ出社させる意向である」といいはるので、絶対に無理だから、もっと休業を続けることが必要と説得したが、出社しない限りは退職ということになってしまい、無理に出社させた後、すぐに自殺してしまった。この当時は(今も?)うつは「なまけ」なのであり、それを許容することは職場の志気を低下させるという見方は根強くある。 後の3例は通常の臨床でみていたかたで、1例は強度のがんノイローゼのような方で、いろいろな症状をすべてガンの予兆ではないかと訴えていたが、たまたま胃の症状があり、内視鏡検査をして大丈夫といった直後のことで、まったく予想していなかった。奥様がしばらく前に亡くなられたいたので、それが原因なのかもしれない。 未遂の2例のうち1例は高齢の方で、肺炎で入院した時に、周囲のひとが自分のことを悪く言っているのではないかということを盛んに訴えていた。高齢のかたには一種の被害妄想(妄想ではなく実際に虐待に近いようなこともあるが)がみられるので、それによるものかもしれないが、退院してしばらくしてから睡眠薬をたくさん飲んで再度入院してきた。今の睡眠剤はいくらたくさん飲んでも原則は命にかかわることはなく、この方も少し長く眠っただけであった。もう一例も睡眠薬多用であったが、中年の男の方で転職を試みていてうまくいっていなかったので、それが原因かもしれない。いづれもまったく予期していなかった。 患者さんの自殺企図の例というのは非常に記憶に残る。未遂の2例はどちらかといえば、ふとそんな気持ちになってという印象で、考えに考えてというものとは思えなくて、予兆はまったくつかめなかった。本書では、「うつ」という病気がさせる自殺と本人が自由意志により決行した自殺が対立的に論じられているが、わたくしの印象では、そのどちらでもない、ふと、何となく魔がさしたようにしてしまう自殺というのもあるではないかと思う。 日本の文化的伝統?としての自殺として心中が論じられている。心中というのは西洋では少ないのだろうか? ツヴァイクは確か奥さんと一緒に死んだように思うが心中という印象ではない。わたくしの印象では、心中というのは実存的云々などとは無縁の、社会の中での居場所の喪失の結果という側面が強いので、共同体の規範が強いところに多く見られるのではないかと感じる。 うつによる自殺というのは精神科医とかかわりのある問題であるということは理解できるのだが、生活苦に起因する自殺というようなものまでもが精神科医があつかう範疇であるかといえば疑問である。生活苦にあえぐ人にSSRIを投与すると自殺が減るというようなことがあるだろうか? かりにあるとしたらそれはそれでとても恐ろしいことではないだろうか? 「自分が自分である」ということと「向精神薬を投与されている自分」というのはどこかで抵触してしまう可能性が高い。まさに実存的問題であって、「自分とは何か?」である。 手術のため全身麻酔をかけられたときの自分は自分か? 寝ているときの自分は自分か?・・・。こんなことを考えても生産的なことはほとんど得られないと思うが、精神医療における「脳派」と「こころ派」の対立にしてもそれと無関係ではないはずである。著者はそれを止揚する?可能性のある心身一元論的な見方に近しいものを感じているようである。 心身二元論を批判するやりかたは西欧批判のもっとも大きな潮流の一つで、通常デカルト批判とワンセットになっている。デカルトによれば、人間以外の動物はこころなき機械なのであるのに対して、人間だけは魂というものを備えている。そうであれば、身体とこころが二つのまったく独立した存在であるとされるのは当然である。 現在ではこころの座が脳であるという認識が一般的になっているので、そうであれば、頭と胴体の二元論かもしれない。しかし脳の病気であっても、脳出血は脳外科ないし内科の病気であり、パーキンソン病は神経内科の病気、たとえ精神症状を呈してもそれが甲状腺機能亢進症によると診断されれば内科があつかう病気となる。 脳の損傷が人格を変えることも報告されており(ゲージの症例)、心身に相関があることは言うまでもないことなのだが、同時に心身二元論もわれわれは深く受け入れており、だからこそ手術がおこなわれ、移植がおこなわれている。虫垂を切除してもわれわれはそれによって自分が変わったなどとは普通思わないし、眼鏡をかけ、抜歯をし義歯を入れても相変わらずの自分である。 中枢神経系というのは抹消からの入力がなければそれだけでは意味がないものだから、身体と相互依存的であるのは自明なのだが、相互関係という以上、二つのものがあることが前提である。「歯が痛くても人生観は変わる」(チェホフ)のは確かだとしても、歯が人生観をつくっているわけではない。心臓病は心臓の病気であって、それはあっても肝臓は健康である(心不全が肝臓機能に影響することはしばしばあるが)。 著者が本書でソマティズム(身体主義)と呼ぶものは、精神疾患を生物学的に(脳の病変として)還元主義的に捉えるのではなく、こころに直接アプローチをするのではなく身体を介してこころを回復させるという、ある種心身一元論的な思想を背景にもつものであり、東洋のみならず西洋の伝統医療の根底にも流れている全人的身体観を基盤とする臨床理念であり、そこでは心身相関の考え方が暗黙の前提として機能しているとされている。これは従来の「バイオロジー」対「精神主義」という「心身二元論」を生み出す二項対立を超える力を秘めているとされる。 おそらくこのあたりの一元論的な行き方に著者が多大の共感を抱いているであろうことが読んでいて強く感じられるのだが、医療の現場にいるものとしては微妙なものがある。東洋のみらなず西洋の伝統医療の根底に全人的身体観を基盤とする臨床理念があったことは確かであるが、それは端的に病気を治せなかったからなのだと多くの臨床家は思っているのではないかと思う。「西洋」の「科学」による医療によってとにかくも「病気」が治せるようになったことがすべてを変えたのではないかと思う。逆に「西洋」の「科学」が本腰を入れて治そうと思っていないようなものは、ほっておいても自然に治るようなものか、単なる気のせいであって、そういうものは(西洋医学的にみれば)本当は病気ですらないのである。東洋のみらなず西洋の伝統医療の根底にあった全人的身体観が相手にしていたのは、そういう本来なら病気ですらないものであったので、だからこそそれなりの効果があったのであって、本当の病気を相手にしたらそういうやりかたでは手も足もでないはずであると多くの(西洋系の)医者は思っているのではないだろうか? 日常臨床で遭遇する大部分の症例は「本来なら病気ですらない」ようなものであるから、もちろんそういうものに対してであれば、東洋の医療や西洋の伝統医療も大いに有効であろうが、いざ「本当の病気」を相手にしたら何もできないくせに、というような感じであろうか? 現在の患者さんの多くが西洋医学に抱く不満は、症状があるから病気であるはずという自分の判断が医者からは相手にしてもらえないという点にあるのではないかと思う。東洋医学も西洋の伝統医療も一種の対症療法に基づくから、症状があれば病気であることになり、要対応の状況であるという判断がされる。そこでは相手にしてもらえる。おそらく整体とかいうのが大繁盛しているのもそのためで、整形外科では年のせいとだけいわれて湿布をくれるだけの症状がそこではちゃんと相手してもらえる(身体にさわってもらえる)のである。 白血病の化学療法などというのは本来なら人道上許されるはずもないような苛酷なもので、何しろ出発点が毒ガスである。しかし患者さんが泣こうが喚こうが治してしまえば勝ちという本音が現在の主流派の医学にはある。もちろん、このような苛酷な治療を継続して受けてもらうためには患者と医者のあいだの信頼関係はきわめて重要であることは論をまたないが、単なる信頼関係だけでは決して白血病を治すことはできない。 精神疾患のなかでも統合失調症や双極性障害などは生物学的基盤を持ちそうにみえる。重症の「うつ」に通電療法などという野蛮としかいえない治療が現在まで続いているのは、それが効くからである。バイオロジズムで対応できるようにみえる疾患は理解しやすい。 おそらく精神科領域にバイオロジズム的思考が色濃く残っているとすれば、それはいまだ多くのひとを納得させるでけの十分な治療効果が得られていない疾患が多いからであり、そもそも従来の「西洋」的「科学」的医療の観点からは「病気」とは思えないものがそこに雑多にふくまれているからなのだろうと思う。学としての精神医学をまもるためには、バイオロジーという砦をまもっておかないと、自分のしていることが呪い師や祈祷師と変わるところはない思えてきて不安になるということがあるのではないだろうか? 本書を読んで「リワーク」というものの位置づけがようやく少し理解できた。リワークというのは、メンタル疾患で休業中のものが、ある程度の回復がみれらていると判断された場合に、いきなり復職するのではなく、疑似的な労働環境のなかで日々過ごすこと続けていくことで、本人が就業にたえるまでの回復状態にあるかをみていくやりかたである。ずいぶんと迂遠なやりかただなというのが、これを知ったときの第一印象で、単に体力的に回復しているかをみる場なのかと思っていた。これが勤労への姿勢、あるいは社会生活への適応というのをみていく場であり、また多くの同じ状況にある人とともに過ごすことで、自分の状況を客観視したり、身体を調整していくことでこころの問題をも解決していく方向の新たな行き方であることを本書で少し理解できた。 その根底にあるのは認知行動療法という新しい精神医学の潮流であることも本書ではじめて知った。認知行動療法という名前くらいは知ってはいたが、いかにもアメリカ的な底の浅い脳天気なやりかたであるなあと馬鹿にしていた。文学青年崩れかつアメリカあるいはアメリカ的なものに強い偏見をもっている人間がおこす当然の反応なのかもしれない。要するに認知行動療法というのは自分を変えるという行き方であると思い、そこに自己啓発的なものを感じてしまうので、自己実現などという言葉に強いアレルギーをもっている人間として、信用できないなあと思ってきた。 人間なんてそんな簡単に変わるものではないぞと思っているし、人を変えようという試みはほとんどの場合は危険だぞとも思っているので、認知行動療法というものへのこちらの持つ偏見は基本的には変わっていない。しかし、うつといわれるものの一部は社会生活への不適応という側面をもっているのは確かなので、そういうひとを社会に適合的にさせることがそもそもいいことなのかは措いておいて、またかつての反=精神医学の動向は明らかにそれを否定する方向であったことがあるとしても、とにかくそのひとが生きていけるようにするという方向は「リワーク」というのがあるのかなということは本書を読んで理解できた。 ここまでの中でも、「気のせい」などと気楽に「気」という言葉を使ってきたが、この「気」という言葉を英語に翻訳する場合どうなるかは、とても難しい問題であると思う。Mind ではないことは確かである。Heart? たぶん heart では気持ちになってしまうから、気概 spirit? 確かに「気」は東洋医学においては、それを構成する大きな因子で、それが先に日本に入り、後から西洋医学がが入ってきたことによる混乱がいろいろなところに見られるのは確かであろう。ということで、次は第2章「気のやまい」をみていく。
2015-12-03 23:23