自然科学的心理の世界で静かに生きること

人間には勘違いもありケアレスミスもあり記憶違いもある
一般に人文系の学問知識で確実に正しいと言えるものなど少ないだろう
どの本のどこにどう書いてあるというような文献学的なものならば検証して真偽を明らかにすることができる
しかしそのような事の真偽が明らかになってもあまり価値がない
書かれてあることが内容として正しいかどうかが問題である
しかしそれを検証する手順がない

検証手順がないことをいいことにして
自分の利益のために、言いたいことを言う場合が多くなる
合理性も知性も、歪められる

一方で、
自然科学には実験がある、そして反証可能性の原則がある

しかしながらこれで検証できるのは自然科学領域だけであり
人と人との間のことや社会のことなどは自然科学ではない

デタラメを疎ましいと思うなら自然科学の範囲内で知的活動をするのがよい
社会に意味のあることをしたいと願うならデタラメばかりの世界に身をおいても嘆かないことだ
どちらかしかない

世の中の何処かに、高い志を持ち、友情や尊敬に満ち誠実で温和な人間関係の集団がいるのではないかと夢想するのだが
キリスト教と現実のキリスト教会集団と同じように
集団になった途端に人間は堕落するのである
仕方のないことであるが、しかし自分もその中に進んで入っていこうとは考えない
距離をおいて、被害を受けないように、注意していたい
自己犠牲となっても一石を投じたいなどと甘いことは考えないことだ

キリスト教は理想であり、シゾフレニーの体質があるが
教会集団は現実であり、MDIの体質がある、現世的で、金、異性、メンツが価値観そのものである
そのような世界と一線を画して、キリスト教そのものと関わって生きること
人間性世界の嘘、ハッタリ、嫉妬、謀略、その他と離れて、自然科学的心理の世界で静かに生きること