絶望の現状

自分の場合の絶望は何に由来しているのだろうと考えてみた
好きなことはスポーツでもセックスでも気晴らしでもない
学問を積み上げることである
それははっきりしている
ところがその学問に疑問がある
過去に多くの人が書き記してきた学問の成果は
後世の私が学ぶに足る知性の結晶というよりも
その時代その地域における心理の記録に過ぎない
脳が書いたものだから
脳の状態の記録に過ぎない
それは脳の状態を検証する材料となるだけであって
私が自分の学問を深めるために学ぶべきものとは思えなくなっている
私が高齢となり怠惰になり知的に衰退していることの結果なのだろうが
過去に書き記されたものは
保存液に漬けられた脳の標本と変わらないと見える
唯一信じるに足るものは科学の成果であるが
これもまたくだらないものと感じている
真実である可能性が高いがくだらないのである
ノーベル賞で表彰される成果やサイエンス、ネイチャーで発表される論文の大部分は
私の世界観には何も付け加えない
そういうこともあるだろうというトリビアルなものが付加されるだけである
思いつきが秀逸であることは認めるが
そのような賢明な人がいた、またはそのような偶然に恵まれた人がいたと言う、それだけである
世界観の変更を迫るものは量子力学と宇宙論、そして進化論と細胞生物学であるが
最近では根本的な進歩がない
技術の進歩はわかるが世界観の変更には至らない
極端に言えばこの世界は素朴唯物論的世界観で解釈できるのであって
それを覆すだけの科学的な論証はないし
いまさらそんなものがあったと言うのは詐欺か錯誤に過ぎない
すべての努力は虚しくすべての人生は死後には無に帰すると思われ
若い頃にはそれが耐え難かったけれども
現在ではそれでいいだろうと思っている
その諦念を覆すような議論はないのだし
あったとしても世俗的宗教の断片に過ぎない
宗教は心理学の研究対象であって
信じるに足る何か、あるいは学ぶに足る何かではない
哲学の一部には興味深い話もあるがそれもまたトリビアルなものだ
過去の脳の全体が作り出したものを
一つの脳が理解するということのメタ認知のパラドックスはあるのだが
それがどうしたというのだろう
私の生活は何も変わらない
たぶん現状で言えば数学を学び直して「道具」を手に入れることが重要だと思う
しかしその場合も数学はなぜ有用なのかという議論になり
数学は世界を転写しているのか
脳を転写しているのか
などという議論になるが
ローレンツのだした結論は
脳は世界を転写するように進化したのであって
その結果として数学は世界の転写でもあり脳の転写でもあるということになる
数学的形式の圧倒的勝利は賞賛に値するし学ぶに値すると思うが
それは他の分野に比較して敬意を評してと言うだけであって
不思議さを経験するには好適であるが
その道具で自分がなにかできるなどとはいまさら思わない
生活は医療の実践であるが
これは全く世俗的なもので
政府が決めた仕組みの中で許された活動をするものだ
それが限界でもあるし
自分としても最大限のものであろうと感じている
生身の人間には限界がある
保存液に漬けられた脳
そして書かれた多くの文字
いずれも研究の対象であり自分が吸収すべきものとは思えない
脳を切るように過去の文献を切るだけである
科学はここしばらく停滞している
だがそれで充分だと思う
宇宙の歴史がどうでも宇宙の果てがどうでも
宇宙が浮かんでいる舞台がなんであっても
私は次に何を食べるかを考える方が切実だし楽しい