「全体の奉仕者」問題


最近の公務員の首相案件とか、
総理官邸は記憶が無いと言い、愛媛県と今治市は記録分子余が残っていて、会見したと言い、
また一方では総理夫人に何人も公務員の秘書がついて活動していた問題などもあり、
公務員は国民全体の奉仕者であると憲法の意思を確認されたりもしている

それは当然なのだけれども
全体の奉仕者であるから
全体の意向はどういうものであるか、どのようにしてか知らないが、知らなければならない
どのようにして国民がどう思っているかを知るのであろうか

国民の意思が分かりやすく示されるのは国政選挙であるが
それが必ずしも国民の意思とも言えないだろう
選挙公約として立てたものに賛成か反対かである程度は分かるのであるが
政策パッケージで候補者や政党を選択するのであって
単一の問題についての住民投票のようなものとは性格が異なる

また国民が選択したのは政策か人かという問題もある

選挙の後に発生した諸事情により、公約は破棄されることもある
あくまで政策が大切というなら政策変更のたびに選挙すべきであるが
人を選んだという観点に経てば、
間接代表制の原則に従い、その当選者に公約変更まで含めて委託しているということになる
また、間接代表制にしているのは、国民が必ずしもすべての情報を知ることはできないこと、
また、情報が与えられたとしても、間違った判断をすることがあるということも考慮してのことである

しかしそれを言うなら、限られた情報と限られた知性によって代表者を選ぶことにそもそも
限界があることにもなる

またマスコミの報道があり、政権支持率とか、特定問題に対しての意見も調査されて発表される

そこにもいろいろな問題はあり、事実、調査機関によって数字にばらつきが出る
調査の仕方は問題で、質問の作り方にも問題はある

これらの中で、とにかく国民の意思の表明として選挙という仕組みに頼っているわけだから
とりあえずそれを国民の多数意見として汲み取っていけばいいという立場に立つならば
国民の意思は国会の意思であり内閣の意思であるともいえる

公務員は、選挙で選ばれた国会議員には、国民の意思という点で劣位に立っている

だから国会議員に命じられればそれに従うのが、国民全体の奉仕者という義務に応えることになるだろう
それは内閣府が公務員の一部上級者の人事権を握っていることとは別の問題で
原理的な問題である

さて、そうは言うものの、昨今の国会議員の質の劣化は著しく、
情報理解力もなく、判断力もない場合が多く、
公務員としては、「この人達にしだっていいのだろうか」と思う場面は多い
そこで、レクチャーの場面を多くして、
公務員側の方向付けの通りに国会議員に動いてもらうことになる

するとここで倒錯が生じ、
公務員が国会議員を動かし、国会議員が国民の多数意見を動かすという、逆向きの流れが生まれる
これは、情報を握るものと、法律的な操作ができる者が、立法、行政、司法のいずれでも、
実質的に優位に立つからである

ここで昔からの議論であるが
公務員は現実の国民に従うのか、理想的な国民に従うのかという問題が生じる

「全体の奉仕者」という場合、
十分な情報を咀嚼し、幅広い観点から判断する、そのような理想的国民を想定することができる
そして個々の公務員が、
もし、理想的な国民がいて、十分な情報理解力と、正しい判断力を持っているならば、どう考えるだろうかと
自問することができる

そこで、全体の奉仕者とは、理想的な国民全体への奉仕者であり、
勘違いしている人達の意思には従う必要はない、
税金問題などのように、現実の国民は反対しても、理想の国民は賛成してくれるはずだから、増税でいいのだと
結論することもできる

たしかに、最後の拠り所である選挙についても
数々の疑念は呈されており、民意を反映しているのかどうかは疑問でもある
ましてや理想国民の意思を反映しているかについては疑問である

しかしまた逆転して考えて、
公務員は、理想国民の意志に従うから、現実国民の意思には従わないというのでもないらしい
ただ自分の利益と省益を考えているだけだと指摘される
国民から見ればどう仕様もない公務員であり
公務員から見ればどう仕様もない国民なのである

まあ、公務員も国民の一部なので、全員がどう仕様もない人ということで平等なのだろう

安倍夫妻が教育勅語小学校を広めていこうと考えたとして
どうでもいいのだろう

出世とか保身とか考えたとしても、
公務員に採用された時点で、世間の一般の職業人よりはずっと身分が守られているわけで
出世してもしなくてもたいして違いはないように思われる

文書改ざんについてはリスクとベネフィットが釣り合っていないので奇異な印象を受ける