高市早苗総務大臣の電波停止発言が問題になっている。
放送法は放送局に対し「政治的公平」を求めており、
これに違反した放送を繰り返し行った場合、
総務省がその放送局の電波を停止することが出来ると国会で答弁したのである。
アメリカもかつては放送法に「公平の原則」を明記していたが、
30年ほど前、「公平の原則」を放送局に押し付ける事は、
憲法が保障した「言論の自由」に違反すると最高裁が判断し、「公平の原則」は廃止された。
日本とアメリカは放送の「政治的公平」を巡って真逆の方向を向いている。
なぜそのような事が起こるのか。
アメリカは放送の世界に新規参入を促して多彩な言論を保証する事が、
憲法の「言論の自由」と合致し民主主義を発展させると考えている。
ところが日本では言論機関と称する新聞社が既得権益を守るためにテレビ局を系列化し、
またNHKが受信料を確保するため有料放送の世界を拡大させないようにした。
日本のメディアが自己の利益のためにアメリカと真逆の放送の世界を創った事が、
今になって安倍政権に付け込まれているのである。
そして誰も「公平の原則」を撤廃しようとは言い出さない。
「権力の横暴」を批判したところで始まらない。安倍政権の脅しは既にメディア界に浸透しきっている。
かつて日本とアメリカの放送の世界に今ほどの違いはなかった。
あるとすればアメリカはCM収入で成り立つ三大ネットワークが中心で、
寄付で成り立つ公共放送がマイナーな存在だったのに対し、
日本は国民からの受信料で成り立つ公共放送のNHKと、
三大ネットワークと同じCM収入で成り立つ民放とが肩を並べる二元体制であった。
違いが出てくるのはケーブルテレビがアメリカで普及し始めた70年代後半である。
それまでの電波を使うテレビはチャンネル数が限られたが、
ケーブルで放送を行うテレビはチャンネル数を飛躍的に増やす事が可能となり、
「多チャンネル放送」がアメリカで始まったのである。
チャンネル数が少ない電波の放送を自由放任にして国民に偏った情報が流された場合、
国民の判断に大きな影響を与える懸念が生じる。
民主主義にとって最も重要なのは国民の判断を誤らせない事である。
そこで電波のテレビには国民の判断を誤らせないための「公平の原則」が強制されることになった。
政治的に対立する問題を放送する場合、両者の言い分を偏りなく放送しなければならないとされた。
戦後、アメリカを真似てテレビ放送を始めた日本はそれをそのまま放送法に盛り込んだのである。
ところがアメリカに「多チャンネル放送」が始まり、さらに79年にスリ-マイル島で原発事故が起きた。
原発を巡る放送は「公平の原則」から言えば「原発反対と原発賛成」を必ず並べて放送しなければならない。
しかしこの時の地元テレビ局は「原発反対」の放送を行い、放送法違反が問題にされた。
この時に婦人団体が「原発反対」の放送を擁護して立ち上がる。
むしろ放送法がおかしいと裁判に訴えたのである。
そして連邦最高裁判所は「放送局が少ない時代には公平の原則を課す必要があった。
しかし多チャンネルの現在、すべての放送内容に両論を併記するよう強制する事は、
かえって憲法が保障する言論の自由を害する」との判断を下した。
そしてテレビ局を監督するFCC(連邦通信委員会)が87年に「公平の原則」を撤廃したのである。
つまり放送局は一方の意見だけを放送しても放送法違反には問われないが、
反論を申し出られた場合には反論も放送しなければならないとされた。
アメリカでケーブルテレビが普及したのに、
アメリカの真似をしたがる日本にそういう動きは見られず、
むしろケーブルテレビの普及を遅らせる動きがあった。
日本には「多チャンネル放送」を実現させないようにする勢力がいたのだ。
それを追及していくとテレビ局を系列下に置いた新聞社と有料放送拡大阻止を狙うNHKが見えてきた。
アメリカでは全国紙と全国ネットのテレビが系列になる事を禁じている。
影響力のあるメディアが統合される事は民主主義に必要な言論の多彩さをなくすからである。
ところが日本では70年代半ばに朝日新聞社がNET(日本教育テレビ)を
系列にしようと田中角栄氏に働きかけ、
それを契機にすべての民放テレビ局が新聞社の系列下に入る事になった。
全国紙を頂点に民放キー局があり、その下に準キー局、そしてローカル局が底辺に位置付けられる。
朝日、毎日、読売、産経、日経の5つの縦の系列が出来上がった。
そしてケーブルテレビの普及は系列の末端の地方ローカル局を脅かすと判断されたのである。
一方でNHKと民放との二元体制は、
受信料という有料放送の世界とCM収入の世界とが競合しないことで成り立っていた。
それまで視聴者は何も考えずに受信料を払ってきたが、
そこに有料放送のケーブルテレビが参入し、NHKより安い料金で放送が見られるようになれば、
視聴者にコスト意識が出てくる。それがNHKには困るのである。
新聞社とNHKは自民党の政治家に働きかけて郵政省に圧力をかける。
こうして日米の放送の世界は大きく離れていくのである。
郵政官僚の中にはアメリカのように多チャンネル時代に対応した放送法に変えなければならないと
考える人もいたが、新聞社とNHKの政治力は大きく、したがって放送法は時代遅れのままとなった。
アメリカではケーブルテレビや衛星放送が多チャンネルの世界を形成して三大ネットワークと肩を並べたが、
日本では新聞社を頂点とするピラミッドの最底辺にケーブルテレビや衛星放送が位置付けられ、
しかも新規参入業者には経営が困難な諸制度があって撤退させられ、
ケーブルテレビや衛星放送が新聞社とテレビ局の既得権益を脅かす存在にはならなかった。
政府与党が「放送法」を振りかざして放送局に対応する様は、
日本が情報や民主主義の面で遅れた国である事を世界に宣伝しているようで恥ずかしい。
しかし同時に権力にそうさせる素地を作ったのは日本の新聞とテレビである事も忘れてはならない。
これこそが権力以上に恥ずかしい存在である事を国民が理解しないと、
日本の「言論の自由」も「民主主義」もただのお題目になる。
高市大臣の電波停止発言には「権力の横暴」とか「言論の危機」とか批判の声も上がっているが、
権力がメディアを操縦しようとするのは万国共通のいわば常識である。
それを「けしからん」と批判するだけでは何も変わらない。
恥ずべき存在のメディアに奮起を促しても無駄だろう。
しかしアメリカの教訓は、何かで権力が放送法違反を問題にした時、
放送法がおかしいと言って国民が立ち上がり、司法に訴えなければ始まらない事を示している。
日本の司法がアメリカと同じ結論を出すかどうかは分からないが、
「言論の自由」を巡る両国の差が分かるだけでも意味はある。