不妊夫婦への精子ドナー足りず、人工授精の受け入れ中止

 夫の精子で妊娠できなかった夫婦が、やむを得ず他人の精子を使う人工授精(AID)を、国内で最も多く行っている慶応大学病院(東京都新宿区)で、事業の継続が危ぶまれている。新たなドナー(提供者)が確保できないためで、背景に匿名のドナーの情報が将来、「出自を知る権利」を理由に公表される可能性への懸念があるとみられる。同病院は今夏、提供を希望する夫婦の新規受け入れを中止。近く、事業の存続などについて協議する。
 AIDは夫が無精子症などで妊娠に至らず、他の選択肢がない夫婦が対象。1948年、同病院が日本で最初に始めた。ドナーは性感染症などを調べたうえで精子を提供する。妊娠率は5%程度。日本産科婦人科学会によると、全国の登録施設は12カ所(今年7月現在)。2016年はAIDが計3814件行われ、慶応大病院が半数の1952件を占める。
 同病院はドナーのプライバシー保護などを理由に、提供を受ける夫婦や生まれた子どもにドナーの情報を公表していない。ただ、海外で出自を知る権利が認められてきた状況をふまえ、昨年6月、ドナーの同意書の内容を変えた。
 匿名性を守る考えは変わらないが、生まれた子が情報開示を求める訴えを起こし、裁判所から開示を命じられると公表の可能性がある旨を明記。日本はAIDで生まれた子の父親が、育てた男性かドナーのどちらなのかを明確に決めた法律がないため、扶養義務など法的トラブルが起こりうることを丁寧に説明した。
 すると、昨年11月以降、新たにドナーを確保できなくなり、今年8月、提供を希望する夫婦の新規受け入れを中止した。同病院は同じドナーの精子で生まれる子が10人に達した時点で、そのドナーの精子は使わないようにしている。このままだと事業を続けられなくなる。
 感染症検査などをせず、ネットを通じて個人で精子提供する動きもある。同病院でAIDができなくなれば、こうした精子提供に頼る人が増える恐れもある。
 同病院はドナーの集め方は非公表だが公募はしていない。公募にすれば、ドナーの性感染症の検査や個人情報の管理に大規模な運営体制が必要になるという。慶応大の田中守教授(産科)は「いち私立大学の財政力では限界がある。善意のドナーをトラブルに巻き込まないために親子関係の法整備を進めてほしい」と訴える。
■出自を知る権利とドナー確保、どう両立
 ここ数年、国内で年3500件前後のAIDが行われ、年約100人が生まれている。国の専門家会議は2003年、法整備に加えて、公的機関でドナーの個人情報の保存や開示請求の相談に応じるよう求めたが、実現していない。法務省は今月立ち上げた研究会で、提供精子で生まれた子どもの親子関係に関する法整備も、議論の対象とした。
 一方、日本産科婦人科学会は見解で、ドナーのプライバシー保護のため相手夫婦や生まれた子どもにはドナーの個人情報を公表しないとしてきた。
 この見解に基づき、AIDを年約300件行っているセントマザー産婦人科医院(北九州市)の田中温(あつし)院長は「出自を知る権利は認めた方がいいが、ドナーが特定されるようになればドナーは確実に減る。両立は非常に難しい」と話す。法律で親子関係を決めても、ドナーと生まれた子が知り合い、親子の愛情がめばえて同居を望むといった事態は起こり得るとみる。同医院では、不妊治療を受けて妊娠した夫婦の夫に、精子の提供を依頼。約半数が協力してくれるという。
 AIDに詳しい吉村泰典・慶応大名誉教授は、開示請求を受けて機械的に公表すれば親子とドナーとの間でトラブルが起きかねないと考える。「両親や生まれた子の公的なカウンセリング体制を構築することが大事だ」と語る。