自由意志について論ずる場合

自由意志について論ずる場合
自然科学的発想からは自由意志の否定にならざるを得ないので
世間の無知や伝統的価値観と対立せざるを得なくなり
それは世間を生きる上で非常に不利な立場となる
民衆の聞きたい歌をうたうのが生きる秘訣だということになる
年をとるに連れてそのような考察はどうでもいいこととなって
要するに周囲の知り合いと仲良くやっていけばいいという結論となる
自由意志論について
伝統的な哲学に接近することは
不毛な泥沼で実りのない時間を過ごすことになる
いまだになんの進歩もない分野である
創発性などと論じている
それは要するに世間を生きるには邪魔な考察であるからだ
しかし知的好奇心からは重大な論点であると思う
そもそも自由意志があることは個人の体験により自明ではないかとの感想はある
それで議論は打ち切りである
それ以上なにかを言うとすれば
自由意志を否定するとは、頭がオカシイのではないかとの反応もあるだろう
世間とはその程度のものである
学者は専門馬鹿なのであるから仕方がないとも言える
自由意志を論じるとしてそれはどのように定義されるものなのですかとの方向になると
哲学史のおさらいになる
そして果てしない誤解と無理解の連続となる
日本で言えば翻訳の問題も大きい
宗教の都合とか世俗権力の都合とか倫理や法の要請とか
たいへんに煩わしく、理解を拒む勢力が広く存在していて
相互理解も進まない
諦めるしかないのが現状だろう
現状では適切な方法が見つからないので突破口がない
それが結論だ
電子顕微鏡という方法がないのに、ウィルスの論議をするのは無理というものだ
野口英世の例もある
電子とか磁力とかは現実に役に立つことが理解の背景にあるだろう
そんなものを理解しなくてもたとえば役人や政治家にはなれるのだから、実際には理解しなくても不都合はない