死別した者同士の集い


──死別した者同士の集い
 毎月3回、家族を亡くされた方達が集まる会の進行をしています。そのうちの2回はいかなる状況での「家族と死別した方」という共通項で集まり、もう1回は「自死遺族限定」という条件で集まっています。私自身も当事者ということもあり、初めて参加された方でも、割と素直な気持ちを語り、感情の表出をされます。
 そこで時折、参加者同士の問題になるのが「悲しみくらべ」という現象です。誰かが自分の悲しみを吐露していると、他の人が自分の悲しみを引き合いに出し、その人を慰めようとされます。
 「でも、あなたはまだいいわよ。お子さんが支えてくれる。」とか、その反対もあり「お子さんがいないから、負担が軽い」とか「まだ若いから」「充分長生きしたから」などなど。
 そういう慰めや励ましを聞いて、「そうだな。自分はまだこの人よりは良い状況なのかも。」と思われたら良いのですが、大抵の場合、話し始めた方は、自分の悲しみが理解されていないと感じる場合も多いので気をつけなければなりません。
 こんな時は励まそうとしている人の想いも、悲しむ人の想いも、どちらも満たされないというとても残念な状態になってしまいます。
──分かりあうことと、癒やし
 こういう状況を見ていると、人は皆、自分のことを分かって欲しいんだなとつくづく思ってしまいます。多くの人間関係の問題の根源は、ここから来ているようにも思えます。
 皆ひとりひとり、魂の奥底で「自分のことを分かって!」と叫んでいるのではないでしょうか。
 それを意識しているか、していないのか人によって違うでしょうが、自分の悲しみを人と比べることは無意味なのです。その人だけの悲しみが分かって欲しいのです。その想いが満たされた時、人は本当に癒され、慰められるのです。
 でも残念ながら、完璧な癒しは人からは与えられません。人は他者のことを完全には分かってあげられないからです。家族や近い人間でさえ、自分を完全には理解してくれません。自分を完璧に理解してくださるのは、自分を創造された神様のみです。だから、完璧な癒しと励ましは、神様以外では果たせません。
 そうなると、それじゃあ死別した者同士が集うことに意味があるのかという問いも出てきそうですが、そこが神様の素晴らしい計らいだと思うのです。神様は私達に分かり合えない部分をわざわざ作ってくださいました。だから分かろうとするのです。やはり人はお互いに理解し合いたいと思って関わり合いを持ちます。
 分からないからこそ、分かりたいと思うことに意味があります。少しでも分かってくれる人がいると完全にではなくても癒されます。そして一緒に時間を過ごしたいと思います。人はそうして共に寄り添うように、最初から作られているのでしょう。