同情

半月後に職がなくなることが確定した。
 新卒で就職したころ、ひどく景気が悪かった。いくぶん回復してきた時分に転職を決めた。内定をもらって退職の手続きを取ったところで、転職先から内定を取り消された。
 その足で転職エージェントを訪ねた。エージェントのオフィスを出ると、やけに空腹を感じた。戦前から営業しているような定食屋に入り、かつ丼をむしゃむしゃ食べた。食べながら親しい幾人かに連絡すると、うちひとりから、仕事帰りに落ち合おうという返信が来た。どこへ行くのかと思ったら東京湾の隅に連れて行かれた。海に向かって叫ぶとよい、と勧められた。まあ騙されたと思って、と言われて、した。けっこうすっきりした。むかついたねと友人は言った。でも、死にやしないよ。そうだねと私はこたえた。これくらいじゃ死にやしないね。
 私の失業の一報を受けて連絡してきた人々はあきらかにおもしろがっており、私もだんだん、ちょっとおもしろいような気がしてきた。葬式みたいな顔してたって何も動かないよな、と思った。やけになっていたのかもしれない。
 蓄えはたいしてなかった。家賃の安い部屋を探して引っ越すべきか、というようなことを友人知人に話すと、うちに来ればいいじゃん、と言う者が幾人かあった。住みこみで赤子の世話をしてほしい、だとか、ごはん作ってくれるなら半年はOK、だとか。田舎の空き家を貸そうという人もあった。
 私は晴れやかに礼を言い、リストを作成した。預金や社会保障のあとに、いざとなったら泊めてくれるという人々、食べ物をくれるという人々、海に向かって叫ぶ提案をしてくれた人などを書き込んだ。失業くらいのピンチなら他人の同情でしのげそうな気がして、自分の資産に感心した。それまで気がつかなかったけれども、私は経済的価値のない「資産」をけっこう持っているようなのだった。
 結局のところ、辞める手続きをした職場の籍がなくなる三日前に次の職が決まったので、経済的なダメージはなかった。なんなら有給消化中に行くつもりだった旅行の費用が浮いた。浮いたぶんは私の失業に同情していろいろの提案をしてくれた人たちに食べ物や菓子や酒を振る舞うのに使った。もしも、と彼らは言った。これから先、同じことが起きても、どうにかなるよ、うちに来たらいいよ。
 そのとき私のしたことは、要するにただの転職である。けれども、あの半月間は私の、カネにならない資産を可視化した。もちろんそれはそのときだけのもので、貯めておくことのできない資産だから、今はあるかもわからない。失業騒ぎから何年かして、私は彼らに問いかけた。何かあったとき私にしてほしいことはある?彼らはそれぞれの要望を言った。自分にできることがあったから、私は安心した。
 自分ひとりで生きられないときには人の同情や好意を使用するのが正しい。なければ公の制度を使用するのが正しい。けれども、人の世話になるくらいなら死ぬという人もなかにはいて、ひとり、ほんとうに死んだ。
 仕事やめたんだ、と告げられたので、そうかそうかと私はこたえた。スマートフォンの向こうから、借り上げ社宅を出るのが月末で、とちいさい声が聞こえ、そうかそうかと、私はこたえた。うちに来たらいいよ。
 そんなわけにはいかない。スマートフォンの向こうの声はそのように言って、すこし笑った。じゃあ、と私は幾人かの名を挙げた。みんな、きみを住まわせてくれるよ、連絡した?
 その質問への返答は避けられた。スマートフォンからはただひっそりと笑いの気配がとりあえず田舎に帰る、と言った。とりあえず生家に帰るという、よくある選択肢が、その人にとってはひどく良くないことだと、私にはわかっていた。うちに来ればいいと思った。
 でも来なかった。私の部屋だけでなく、誰の部屋にも来なかった。どこへも行かずに、生まれた家で死んだ。死者のスマートフォンを見た死者の姉が上京して生前連絡していた十人ばかりを訪ね歩いた。私のところにも来た。彼女は死者とそっくりにちいさく笑って、言った。どうしてあの子は、マキノさんの家に行かなかったんでしょうね。
 そんなのはわかりきったことだ。私は思う。死者は私たちの誰の世話にもなりたくなかった。そういう人だったのだ。他人の同情を買って居候していると後ろ指を指されるくらいなら生きていたくなかった人。同情もさせてもらえなかった側の人間がどれほど苦しむか、想像してもくれなかった人。冷たい人だ、と思う。私はきみのようにならない、と思う。自分で自分を支えられなくなったら他人の同情につけこんで居候して暮らそうと思う。