“
あとがき
音痴で、絵が下手で、思ったように踊ることも出来なくて、それでもなにか伝えたい人が、使う道具が言葉であることを、私は知ってる。だれでも踊れたら、だれでも歌えたら、ひとは、言葉なんて発明しなかったかもしれない。不自由なところにある言葉。不器用なひとのためにある言葉。言葉にできないなんて、簡単に言わないで。言葉はあまりに乱暴にあなたを区切ることもあるけれど、決して、それだけではないはずだよ。
言葉は、たいてい、情報を、伝える為だけの道具に使われがちで、意味のない言葉の並び、もやもやしたものをもやもやしたまま、伝える言葉の並びに対して、人はとっつきにくさを覚えてしまう。情報としての言葉に慣れてしまえばしまうほど。けれど、たとえば赤色に触発されて抽象的な絵を描く人がいるように、本当は、「りりらん」とかそんな無意味な言葉に触発されて、ふしぎな文章を書く人がいたっていい。言葉だって、絵の具と変わらない。ただの語感。ただの色彩。リンゴや信号の色を伝える為にだけ赤色があるわけではないように、言葉も、情報を伝える為だけに存在するわけじゃない。
意味の為だけに存在する言葉は、ときどき暴力的に私達を意味付けする。その人だけのもやもやとした感情に、名前をつけること、それは、他人げ決めてきた枠に無理矢理自分のの感情をおしこめることでその人だけのとげとげとした部分は切り落とされ、皆が知っている「孤独」だとか「好き」だとかそういう簡単な気持ちに言い変えられる。けれど、それは本当に、その名前のとおりの気持ちだったんだろうか。いつのまにか忘れてしまう。恋なんて言葉がなくても、私はそれを恋だと思っただろうか?と、気づかなくなる。私達は言葉の為に、生きているわけではない。意味の為に生きているわけではなくて、それも私達の為に存在しているものなんだ。
意味付るための、名付けるための、言葉を捨てて、無意味で、明瞭ではなく、それでも、その人だけの、その人から生まれた言葉があれば。踊れなくても、歌えなくても、絵が描けなくても、そのまま、ありのまま、伝えられる感情がある。言葉が想像以上に自由でそして不自由なひとのためにあることを、伝えたかった。私の言葉なんて、知らなくてもいいから、あなたの言葉があなたの中にあることを、知ってほしかった。
それで一緒に話したかったんです。
そんな感じです。またいつか、お会いできたら嬉しいです。
ありがとう。
”