飯場(はんば)

若い人には馴染みのない言葉だろうが、その昔、日本列島各所の奥地にはタコ部屋を擁した流浪者の身住まいのできる飯場(はんば)というものがあった。
読んで字のごとし飯を食う場である。
一般に山奥の建設現場でタコ部屋に住みながら労働に勤しむ場ということになるが、都会の場末にも飯場のようなところは随所にあった。
私も若いとき高田の馬場にある飯場に1ヶ月ほどやっかいになったことがあるが、薄給であるにも関わらず3畳くらいの個人部屋が与えられた。
日給六百八円と変に中途半端な数字だった。
なぜ八円が加わっているのかと尋ねたが飯場長は「昔からやっていることやからわからん」と言った。飯場は飯を食いあげた流浪者の溜まり場のようなところもあったから、末広がりの八を付けることでここを出た暁には良い人生を送って欲しいという願いのようなものをある時誰かが込めて八円を加えたのかもかも知れないと若い頭で考えたこともあった。
私の場合はすぐ必要な金が必要だったから腰かけ程度に働いたのだが、一般の労働賃金より安いにもかかわらず人が集まるのは、個室があてがわれたからということもある。
その個室には若干の理由がある。
世間から身を隠すことが出来たのである。
飯場でタコ部屋に入る者は身元を一切問われないという不文律がある。
そして働いている者同士も身元を詮索しない。
タコ部屋とはタコツボに一匹づつタコが入るのに準えられて付けられた名称だと思うが、そのように流浪人が身を寄せるには格好の場だった。
その流浪人とは当然犯罪者も含めての話だ。
時、2009年。
こんな明るい時代にあの飯場に似たものがまだ世間にあはるのだなぁと、テレビに映し出された市橋達也が寄宿していたという4畳半くらいの寮の個室を見て思った。
当然昔とは違って小ぎれいな部屋だが、その部屋を見て思ったことは、かつての飯場やタコ部屋にあった人の身元を問わない、他者に干渉しないという習俗のようなものが多少とも残っていたから彼のようなものが1年も暮らすことが出来たのではないかということである。
それにしてもオタク的気質と言われていた市橋達也が、日本各地を流浪しながらたくましくも嗅覚でそういう場を見つけ、日々労働の汗を流していたということは少なからぬ驚きである。
かりに彼が殺人容疑者ではなく、普通の青年であったとするなら、それは一人の青年の成長物語の軌跡として親や縁者の瞠目の対象になっただろうにと、市橋逮捕後の両親の憔悴した声を聴きながら不憫なものを感じざるを得ない。