昔の中島みゆきの歌の中には都会と故郷の対比があり

昔の中島みゆきの歌の中には都会と故郷の対比があり
故郷への郷愁が強く歌われている
その後の若者向けの流行歌ではそのようなことはあまりないと思う
故郷に自分の出自があるとかアイデンティティがあるとか思わなくなったらしい

一つにはテレビが文化を均質化したということもある
情報伝達は速くなり
交通機関も発達した
田舎の居間では、東京と同じ番組が流れ、
東京と同じようにうるさいのである

(そういう人にとっては、テレビの前が故郷なのかもしれない)

田舎の人口密度と情報量は昔は疎らだった
一方で東京の新宿や池袋は毎日が田舎で言えばお祭りのような人口密度である
田舎ではありえないが、みんな電車で本を読んでいた

現在はそうではない
電車で本を読まなくなった、みんなスマホである
その点では田舎も変わりはない

田舎の駅前はシャッター通りと言われて
郊外の大型ショッピングセンターに客を奪われ
しかしそれもつかの間、いまはネット通販で買い物をするようになっているという
そのあたりも都会と田舎の対比は薄れてきているように思う

子供の頃に田舎でドパミンレベルの低い環境に慣れた脳が
青年期に都会に来てドパミンレベルが高くなり
シゾフレニーの発病要因になるという単純なモデルは
私が学生時代から考えていたものなのだが
田舎と都会のドパミンレベルの差がなくなってきているということが
シゾフレニーの軽症化を説明するのではないかと
あれこれ言っているのだが説得力はない
文献をたくさんつけて論証しなければならないらしいが
それは私のやりたいことではない

いまモンゴル出身力士がモンゴルに帰れなどと言われ
故郷というものを強く意識していると思う
40年前の中島みゆきである

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とは言うものの、不思議な事に方言はなくならない
地方の人は一種のバイリンガルになっている

その状態では本音と建前を使い分けることが当たり前になる
本当の感情と言葉を抑圧することが当たり前になる

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「本当のところ、お前は何に所属しているのか」という問題も変化している
戦争中は日本人であるというのがアイデンティティの中心だった
戦後社会が成熟してくると
自分は世界人類であり、かつ、何とか高校吹奏楽部であるとか、
大きな所属と小さな所属の二つを同時に意識するようになったのではないだろうか
たとえば、EU市民とハンブルグの町など
大きいが仮想的な所属と、小さくて具体的で個別メンバーの名前を知っている所属
その方向が突然崩れ
ナショナリズムが台頭しEUからの離別を叫んでいる
揺り戻しはあるだろうし、その先はまた、世界はひとつという意識に向かうだろう

現代日本ではこうした自己所属の問題を満たしてくれる地域共同体もないし
ボランティアの単位もない
日曜学校の顔なじみもない
そこでやすやすと新興宗教が激しく勢力を拡大する

昔高橋和巳が邪宗門を書いた頃とは何か違う
餓死するような貧しさがなく
宗教が何を救うのかというフォーカスが大幅にずれている

アメリカでは福音派の勢力増強が言われ、
またモルモン教徒などの諸宗派の活発化も言われている

なぜ生きるのか
死んだらどうなるのか
今何をなすべきか
それらを単純なセットで提供する
そのかわり、財産の寄付をいつも要求する
そして有名人はいつも広告塔として発言を続けている
トム・クルーズ、日本の昔のアイドルなど

一方でカルトは政治と結託する
そこにはお金と票がある
死後の王国ではなく現世の王国を目指しているかのようである

しかし、そういうもの以外にアイデンティティを感じようがないのである
自分の根拠がない

その点、昔の中島みゆきは北海道に根拠があり、
モンゴル力士はモンゴルに根拠がある
北島三郎や千昌夫の故郷は根拠として機能したのだろう

いまは日本とか新興宗教がアイデンティティとなっているような気がする