"僕自身、保守やリベラルに対する違和感をもつきっかけになったことがあります。僕は子育て支援を仕事でしていますが、さまざまな保守系政治家と話をするとき、彼らはことあるごとに「伝統的家族観」を持ち出し、子育ての社会化を阻害するような発言や行動する。だが、彼らの言う「伝統」は、たかだか100年くらいの「伝統」でしかない。でもたとえば、社会が「専業主婦をよし」としていたピークは1970年代です。決して伝統というほどの時間軸ではないですよね。伝統ですらないものを伝統としている。彼らは何を「保守」しているんだろう? と、懐疑するきっかけになった。
「リベラル」に対しての懐疑のきっかけは、反原発運動ですね。妻は福島県中通り出身で、実家が被災をしている。そこで街の復興のために活動しようとしている人たちに対し、リベラルの人たちが何をしたかというと、「汚染された福島から今すぐ逃げろ」と強くたきつけてきた。子どもたちの環境を少しでも改善しようと屋内運動場を整備したりすると、「福島の子供を殺す気か」と言われてしまう。
しかしながら、彼らのほとんどはネット上で言うだけで、福島には来ていない。「自称リベラル」の意見には何の包摂性もない。弱者に憑依し、ヒステリックに正義を振りかざす。ほとんどが自身の感情的充足を得たいだけの人たちだということがわかり、「リベラルは死んだな」と思ったんです。では、「リベラルにも、保守にもいかないとしたらどこに向かうのか」"
http://www.sotokoto.net/jp/dai3/index.php?id=1&page=2
社会的に「保守」というのは、エドマンド・バークを中心とした「これまでやってきたことに叡智が含まれている」というところで、保守していくところですが、日本の場合は改憲派が「保守」で、護憲派が「リベラル」というねじれが生じています。これが、ややこしくさせている。
戦後、アメリカの進駐軍がつくった枠組みの中で、日本は市場中心社会を作って経済成長を推進し、一方でアメリカとは仲良くし、さらに伝統的家族感も大切にして……という少し分裂したようなものが「日本の保守本流」で、自民党の「改憲案」に代表されるようなものが保守思想なんじゃないでしょうか。
基本的な背景事情というのは「世代対立」だと思うんです。今のリベラル層は団塊の世代が中心で、なぜ彼らの多くが左翼思想になったかというと、親が皇民思想だったから。その反動でしょう。逆に今の30代から40歳ぐらいまでの団塊ジュニア層はメディア空間がわりにリベラル的な思想に完全に染まってきた状況の中で育ち、愛国主義的な思想自体はすごく抑圧されてきた。
どこの国だって愛国主義はあるし、愛国主義自体が悪いわけではない。ただ、それが過剰になると、ヘイトスピーチが生まれ、ナチスドイツのようになってしまう。健全な愛国心はあって然るべきですが、それが過剰に抑圧されてきた文化が続いたので、インターネットの登場でアンチテーゼとして「ネット右翼」的なものが噴出してきたのではないでしょうか。
右翼には、戦前の大日本帝国の解禁を訴える人もいるし、純粋に郷土愛とかを中心に考える人もいる。リベラルの代表格ともいえる現代思想家の内田樹さんは、「江戸時代は偉かった。森林を守ったこと、武器の進化を止めたこと、自然の力を制御する媒体として機械ではなく身体を選んだこと、鎖国したこと、列島を300の藩に割ったこと。今の日本が世界に誇れる資源は江戸時代からの贈り物です。Back to Edo era!」と言っています。つまり彼の考え方は、本来の意味であれば保守思想だと思うんです。
なので、ネット右翼と言って一言で縛るのは、あまりにも総称しすぎかなとは思います。ぼくは新しい右派勢力みたいな言い方で、『21世紀の自由論』には書いていたんですけれど。
とはいえ、ネトウヨが思想かというと微妙なところがあって、中国や韓国に対しては攻撃的な言説を繰り出し、それで繋がり合うと言う人たちがいる。じゃあ、アメリカというものに対する態度というものがどうなのかというと、そこはスルーだったり
「高齢者と若者の対立」「地方と都市の対立」など、対抗軸が多すぎて回収しきれない状態。それを解消するためには、本来は何かの理念があって然るべき。ところが、その理念そのものが、もはや存在しない。
だから、リアリズムとして考えざるを得ない。例えば年金問題。「年金は破綻しない」と言いながら、将来月額支給額が3万円になってしまったら破綻しているのも同じ。だったら、もっとリアルに考えてベーシックインカムでいいんじゃないかというような議論すべき。リアリズムが重要だと思う。
生活保護を受けて困窮している人に対して、「なんで投資をしておかなかった?」と言う人がいる。確かに「リアリズム」の観点ではそうかもしれないけれど、それを「自己責任」と言ってしまうと、あまりにも冷たすぎる。誰だって失敗するわけだし、論理的によくわからない感情につき動かされて行動することだってある。そういうものを含めたうえで、「優しいリアリズム」という言葉を使っている。
「優しいリアリズム」に反応したのは、「強くて優しい社会」を実現したいと常々言っているから
「強さ」とは経済成長であったり、リアリスティックな安全保障体制。一方で、「優しさ」は包摂性、多様性を共有した社会です。この両立は今後のテーマだし、両者は共通して必要だろうなと思っています。
慶應義塾大学の中室牧子准教授の「教育経済学」という分野に最近とても興味があります。教育経済学とは、教育の投資対効果を科学的、数値データにして、「それが本当に価値があるのか」を考える学問です。
例えば政府は新成長戦略において、2020年までにiPadなどのタブレットを小・中学校に通う子どもたちに配ろうとしている。しかし、iPadを1台届けることによって、どの程度の効果があるのかという「科学的根拠」は誰も知らないし、測ってもいない。
もちろん、iPadを配って子どもたちの成績が上がるのであれば配るべきなんだけど、もしかした成績が下がるかもしれないし、変わらないかもしれない。こういうことを教育経済学的な視点からだと検証できるわけです。
中室准教授によれば、実際にアメリカでのデータがすでにあって、iPadを配った教室と、配っていない教室では、
学力は変わらなかったそうなんですね。だったら何万円も払ってiPadを配るより教科書でいいと判断できる。アメリカでは、教育経済的に「データ」と「ファクト」に基づかなければ、教育政策として認めないというふうになりつつあるんです。日本で教育問題というと、イデオロギーに集約されがちですが、これは脱イデオロギーにもいいですね。
学力は変わらなかったそうなんですね。だったら何万円も払ってiPadを配るより教科書でいいと判断できる。アメリカでは、教育経済的に「データ」と「ファクト」に基づかなければ、教育政策として認めないというふうになりつつあるんです。日本で教育問題というと、イデオロギーに集約されがちですが、これは脱イデオロギーにもいいですね。
そうですね。いったい教育は「何がしたいのか」があまりに語られていない。例えば、「OECD(経済協力開発機構)の国際学習到達度調査のランキング上位に入る」というような明確な目的を設定して、そのうえで議論すべきで、それが国力につながると思います。今の議論では、「こういう日本人をつくるべき」という精神性的なものになってしまっている。
「伝統的な侍のような日本人をつくりたい」、「多様性のある感受性豊かな子どもをつくりたい」という人たちがいる。でもそれが教育の目的ではなくて、侍みたいな子どもがいてもいいし、多様性を持つ感受性豊かな子どもがいてもいい。
駒崎: 「学力を上げていきましょう」といえば、誰もが賛成しますよね。では学力が上がるために、必要なものはなにかというと、データに基づいたファクトを調べれば、効果的な政策ができる。
そうすれはiPadを配るよりも、少人数のクラスにしたり、夏休み中の補習授業をすればいい。夏休みにおける学力の低下というのは実際に起きていることなので、そこで補習をするのは理にかなっているし、コストも安い。「侍みたいな子ども」でも「多様性のある子ども」でも、長期スパンではあるべき像というのを話していただいて結構なんですけれど、今まさに必要な問題解決というところでは「データ」と「ファクト」を積み上げて改善していくことは大切だと思いますね。"