2000年11月、不人気にあえぐ森喜朗政権の倒閣に動いた自民党の加藤紘一元幹事長は、野党が提出を模索していた内閣不信任決議案に自らの派閥議員らとともに同調しようとした。執行部の野中広務幹事長らが除名や公認取り消しをちらつかせて鎮圧に乗り出し、失敗に終わった。加藤氏と行動をともにした盟友の山崎拓・元自民党副総裁に「加藤の乱」の内幕を聞いた。
■「加藤氏は脇が甘く、勝負師でない」
――11月9日に加藤氏が政治評論家らとの会合で「森首相に内閣改造はさせない」と表明し、加藤の乱が始まりました。なぜこの日だったのですか。
加藤の乱を振り返る山崎氏。「加藤氏は脇が甘く、勝負師ではなかった」と語る
「会合は加藤さんの方で設定したわけではなく、政治評論家らが設定した会合に呼ばれていって、思わずしゃべったんだろう。発言は全然計画的ではなかった。脇が甘いんですよ。戦い慣れてない。勝負師ではない。お公家集団といわれる宏池会(当時は加藤派)の悪いところが出たんでしょう。あの会合の出席者の中で官邸に駆け込んで森首相にご注進した人物がいた。それで一気に広まった」
――乱を起こすのはいつごろ決めていたのですか。
「加藤さんは10月30日に青木幹雄参院幹事長に会って、青木さんに『政権奪取をするから、そのときは平成研(現・額賀派)から幹事長を出してくれ』とお願いした。青木さんに『できればあなたになってほしい』と言ったというわけだ。青木さんは黙っていたそうだ。内心はどう思っていたかはわからない」
「そのあとぼくは加藤さんに呼ばれてそういう次第で政権を取ったら幹事長は平成研に渡すことになった、と告げられた。本来なら拓さんがやるべきところだが、勘弁してくれ、と言う話があった。僕のところに話が来たのは10月30日か翌日の11月1日だった」
「当時、加藤さんは自由党の小沢一郎党首とも密接に連絡を取っていた。小沢氏と連携を取らないと本会議クーデターで勝てないわけだから」
――11月9日に加藤氏が計画の発端を明らかにしました。
「一番困ったのは小沢氏だった。小沢氏は『これではやれない』といっていた。クーデターなんだから瞬間タッチでやらないといけない。前もって気づかれたらおしまいというわけだ。ぼくも本会議直前まで伏せておくつもりだった。途中でばれたから切り崩しにあった。うち(山崎派)は崩されなかったが、ほかは総崩れだった」
――当時、森首相から派閥(森派、現・細田派)を預かっていた小泉純一郎氏とは「YKK」と呼ばれる盟友関係でした。小泉氏はどう対応したのですか。
「森首相に話を聞いた小泉氏からぼくのところに電話があった。ぼくは『知らない。あした衆院本会議があるから加藤さんに聞いてみろ』と小泉氏に言った。2人は席が隣同士だった」
「小泉氏は加藤さんから話を打ち明けられて『おれは森派の会長だ。これは大変なことだ』といっていた。『森派の会長をやっている以上は阻止しないといけない』と言っていた。それは当然だ。派閥を預かっていたのだから。『拓さんやめろ』というから、ぼくは関係ないと言った。小泉氏はその日、衆院本会議場を駆け回っていた。それで騒ぎが始まった」
■「一番おそろしいのは小泉氏」
――小泉氏は加藤の乱が終わった後に「YKKは友情と打算の二重構造だ」と評しました。
山崎氏は「一番おそろしいのは小泉氏だ」と語る
「ぼくの12月11日の誕生日パーティーに来て発言したんだ。あの加藤の乱の後だからだれも来なかった。小泉さんが乗り込んできて、あいさつさせたらそう言った。みんなあぜんとした。打算の意味が分からないから。あれは次は自分が(首相に)なるという意味だった。一番おそろしいのは小泉氏だ」
「森首相側は乱を抑えたが、支持率は6%に下がっちゃった。もうもたないと小泉氏はわかった。それならおれがいくということだった。その後、『拓さん、今度はおれを鉄の結束で応援しろ』と言った。小泉氏が(次期首相に)でてくるなんて夢にも思わなかった」
――乱の最中は小泉氏とどういうやりとりをしたのですか。
「ぼくは今回は加藤さんを応援するが、加藤政権が終わったら小泉政権だといって説得した。ぼくは(首相に)なるのは諦めたといった。(小泉政権が誕生し)ぼくが幹事長になった。加藤さんはぼくを幹事長にしないといったが、小泉氏は幹事長にした」
――加藤氏はインターネット上の世論を重視していました。
「ものすごい人気だった。加藤さんはあれで酔ったんだろう。事前につまびらかにしたから。国民はあまりに面白い話だから沸き立った。それくらい森さんの評判が悪かった。ネット上でほとんどの人は『フレー!フレー!加藤』だった」
――加藤氏は宏池会の元領袖、宮沢喜一元首相と事前にどのような調整をしていたのですか。
「加藤さんが宮沢さんのところに話にいったということは覚えているが、どういう反応だったかはわからない。加藤さんが直接話をして宮沢さんのことだからあいまいに答えたんだと思いますよ。賛成するはずはないから」
――負けると思った瞬間はいつですか。
「加藤さんが11月9日にしゃべってしまったとき。それですべて狂ってしまった。当時の執行部は野中広務幹事長、古賀誠国会対策委員長、小里貞利総務会長だ。古賀氏も小里氏も宏池会だから、加藤派はがたがたになった」
――負けを確信したのは。
「衆院本会議場に赴く前の日くらいでしょう」