"絶望の各種について
人生にはいろいろな絶望がある
一番多いのは人間不信だろうか
友人、夫婦、親子、いずれも人間不信の原因になる
裁判になったりして、お互いの過去を罵り合う
これに対しては、時間をかけて、新しい人間関係を築くことである
死ななければなんとかなる
あなたを理解してくれる人がかならずいる
経済面で、破産もかなり絶望する
しかし命があれば働けば良いのであとは余計なことを考える必要はない
破産しなかったら楽ができたのにと思うだろうが
今までコツコツと働いてきたとおりに働いていくのも悪くない
破産した分は赤十字に寄付したとでも思って
再出発することだ
前向きになって過去を忘れることが現在を幸せにする方法だと思う
その点で忘れっぽい高齢者はいいところもある
自分が原因ではなく騙されたとかの原因で破産することもあるが
その場合、怒りは大きいだろうが
いつの日か怒りを超えて、またこつこつと働き始めるのが良い
絶望の原因には病気がある
こればかりは死に至る病があるので現代医学でもなんでもまずしかたがないところもある
人間には寿命というものもあり120歳を超えて生きるということは
今のところ希望がない
治せる病気ならば治せばいいが
その場合でも経済的時間的精神的負担は大きく
しかも周囲の人にかなりの負担をかけてしまうことも実際にはあり
簡単ではない
しかしそれでも生きてみようではないか
たとえば東京オリンピックまでは何とか生きていようと思うのもいい
孫が中学生になるまで生きていようと目標にするのもいい
自叙伝をまとめて残すことを目標にしてもいい
病気と闘いながら日々を生きている人はたくさんいる
できれば一日一日を丁寧に生きて見たいものだと思う
病気で人生が行き止まりに思えた時
この空の青さも、この花の色も、目に染みる
これまで自分に関わってきた人たちのことも感謝の気持で思い出すことができる
不治の病の場合どうすればいいだろうか
現代ではホスピスというような場所でケアが行われる
伝統的には宗教の守備範囲で、死後の世界がどのようなものであるかを説明したりする
ホスピスでは宗教関係者が積極的に関わっている場合も多い
絶望の典型例として、犯罪・戦争・事故の被害者とその家族の場合がある
それはどのようにしても納得出来ないものだ
「どのように考えようと納得などできない、にもかかわらず、明日に希望を持って、今日一日を丁寧に生きる」
それはできることではないだろうか
無理なことを言うようで申し訳ないのであるが、
とりあえず、今日一日は与えられている、それを丁寧に生きる、
そして明日が与えられているとすれば、それに感謝する
不幸のさなかに、そらに病気、破産、事故、戦争、犯罪被害などが重なるかもしれない
しかしそうした絶望の中で
人と出会い、小さな希望が与えられる
いつとはいえない、時間がかかるもしれない
絶望の中で暮らす日々は耐えがたく長いかもしれない
それでも、何とかしようではないか、孤独と思えても、そうでもない場合もある
明日も同じだという確実な証拠などはないと思われる
世の中で言われる絆とか人との関係が大切だと言われることが多いのであるが
絶望する場合にはその部分が傷ついている場合が多いので
将来は新しい絆が生まれますよと考えるか
絆は薄いままでいい、静かに暮らそうと考えるか、
自然との結びつきなどを人との絆の代わりにするかということになるかもしれない
昔から隠遁した人は人よりも自然を友として生きたのだろうと思う
(しかしそのことも、文章に書き残しているからわかるのであって、
文章に残すということは結局、人との絆を求めていたということになるのだろう
ただ、人の範囲が広がって、いつか何処かでこの文章を読んでくれる理解者に向けてということになるのだろう
それもまた大きな慰めである)
総じて、絶望は一時的なものだ
人間の精神は時間をかけて絶望を乗り越えるようにできている
そのようなメカニズムが備わっている
あなたが破産したとしよう
どうすればいいか
答えははっきりしている
明日からもコツコツと働くことだ
それしかないしそれで充分である
そして考えて見れば、破産しなかったとしても、あなたはコツコツと働いていたはずである
だから表面上はあまり変わりがない
ただ、以前よりは、絶望している人に対して、共感の可能性が拡大しているということだ
共感の可能性が拡大したということはかなり大きな財産であると思う"
"知人が言っていたが、これで破産が三回目
でももう立ち直る方法もわかっている
また一からこつこつやっていきますよ
贅沢ができなくなっただけで
働くのは同じだからという
なんという強い人だろう
甲子園で泣いているけれども、
あれは決定的な不幸が襲って絶望した涙ではない"