“子供の頃自転車を乗り回した。舗装も整備されず、タイヤの質も悪い時代、よくパンクした。自分でも直したが、直せないのは自転車屋に突いていく。自転車屋の親父は水を張った洗面器を出してなんなくチューブを取り替えるのだが、その時に使う道具は、彼の親指である。それは、いびつに変形していた。チューブを替えるという仕事のために変形したその身体を子供の私はじっと見つめた。仕事とはなんであろうか。▼もう20年も前になる。日本古代の冶金に関心をもったことがあるが、片目の面や片目の像をよく見かけた。冶金のための火を覗きで片目を失うらしい。▼仕事で身体を壊すことなど人道的なことではないというのはもっともなことだが、現実の人間は、これが仕事かと思えば、じわじわと身体を壊しつつも生きていく。命は宝であるが、仕事のために命をすり減らすこともある。繰り返す。まったくよいことではない。ただ、そういう生の形というものはあるということが、見えづらい時代にはなった。”