故佐藤栄作氏をはじめ、歴代首相のスーツを仕立ててきた高級紳士服店、銀座テーラーグループ(東京・中央)。1935年に創業、戦後、銀座に店を構え、バブル経済の崩壊やリーマン・ショック、東日本大震災など数々の危機を乗り越えてきた。3代目社長の鰐渕美恵子さんは元専業主婦。40歳代で社長になった彼女の原点とは――。
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性格なのでしょうか、自分の身に起きたことはすべてよし、と思う方です。紙にも表と裏がありますね。わかりやすく言えば、これが人生ですよ。表だけ、裏だけの人生なんてない。いいことと悪いことは必ず、セットでやってきます。
いつからそう思うようになったのか――。原点にまで遡ればやはり、私が商家の生まれだったことが影響しているかもしれません。
■「いとはん」と呼ばれて育った少女時代
銀座テーラーグループ社長 鰐渕美恵子氏
子供のころ、私は「いとはん」と呼ばれて育ちました。いとはんとは大阪弁で「お嬢ちゃん」という意味です。兄と弟に挟まれた、女ひとり。実家は菓子問屋を営んでおりました。
戦後間もない頃ですから、甘いものが飛ぶように売れまして、父もあっという間に財を成した。ところが、私が12歳の時に父が亡くなり、状況は一変しました。
それまで優しかった人が、手のひらを返したように冷たくなりました。会社を大きくする過程で、父は北海道から九州まで取引先の一つひとつを訪ね歩き、特約店契約を結んでいたのですが、それも父が亡くなって半年後には、すべて解消されてしまいました。
そんな現実を目の当たりにしていたからでしょうか。相手が本当に頼れる人物であるかどうかは、何か悪いことでも起きない限りわからない。今日までニコニコしていた人が、明日にはガラリと態度を変えることもある。それが商売であり、人生だということはなんとなく子供の頃から感じていました。
ただし、私がそんな厳しい商売の世界に身をおくようになったのは44歳からです。それまでは2人の娘を抱えた専業主婦でした。
■バブル崩壊とともに営業の最前線へ
専業主婦だった私がビジネスの世界へ足を踏み入れる1つのきっかけは、バブル崩壊でした。当時、銀座テーラーの売り上げを支えていたのは贈答用のお仕立券。バブル崩壊で法人需要が激減するとまず、このお仕立券がまったく売れなくなりました。
「私にはもう売っていく自信がありません」と、それまで売り上げナンバーワンだった営業マンが突然、退社を申し出たのが1991年のこと。営業の最前線にいた彼には、店の経営が苦しくなっていくのが手に取るようにわかったのでしょう。その彼が辞める際、なぜか、社長だった私の夫にこう進言したのです。
「私の後には、奥さんを入れたほうがいいです」
この進言がきっかけで、私は銀座テーラーに入社することになりました。
主人は経営のことはハナから興味がなく、病気になる以前から、財務など面倒なことはほとんど番頭役の専務に任せきりでした。
そんな夫の性格を知っていた義父は会社の行く末を心配し、亡くなる前に、財産の多くをセザンヌやルノアールなどの一流絵画に代えて残しておいてくれたのですが、義父が亡くなると、夫はそれも次々と売り払い、自分好みの現代アートに買い替えていました。
これは後になってわかったことですが、夫はそのころ、絵画投資にも随分とのめり込んでいました。
商才のあった義父はテーラー事業で得た利益を不動産投資に回し、それを別会社として運営していました。そのため、鰐渕家は一時、銀座に多くの貸しビルを所有していたのですが、夫はその不動産を担保にして銀行から多額の融資を受け、オークションで絵画を次々と競り落としていました。
ビル一棟がとんでもない額の融資を可能にしていた時代です。銀行はいくらでも貸してくれました。バブル崩壊で不動産価格が暴落すると、この時に融資してもらった借金の利息がそれこそ泡のように膨らんで大変なことになってしまうのですが、このころの私はまだ、そんなことも知らずに、自分で企画したレディース用スーツの営業に回っていました。
営業はもちろん、働くのも生まれて初めてでした。「月に300万円は売る」と自分自身にノルマを課し、車を運転して、娘の学校で知り合った友人・知人のお宅を訪問しました。
あからさまに嫌な顔をされることもありました。「あそこまでしないといけないのかしら」「みっともないわね」などと、陰で噂する人もいたようです。それでも、私は平気でした。
商家に生まれたからでしょうか、商売は頭をさげてなんぼという感覚が、私にはごく自然と備わっていたようです。
■人生はどこかで犠牲を払わなくてはならない
テーラー事業は本来、男社会です。そこに女性が入っていくことへの抵抗は強く、社内は「お手並み拝見」と高みの見物をしている社員がほとんどでした。「やる」と覚悟を決めた以上、数字は絶対に達成しなければ彼らに認めてもらえません。
必死でノルマをクリアしていきましたが、会社全体の売り上げはいっこうに上向かず、入社してからわずか3年で、ピーク時の7割程度にまで落ち込みました。
そんな矢先の1995年、私は「総支配人」に就任しましたが、この時に初めて財務関係を任せていた専務から、借金が約100億円にまで膨らんでいることを知らされました。借金があることはうすうす感じてはいましたが、まさか、そこまでの金額になっているとは思いませんでした。
寝耳に水のことで、まさしく血の気が引くような思いがしました。
融資した資金を回収しようとやってくる銀行とのやりとりは、熾烈(しれつ)を極めました。バブル崩壊で不動産も、絵画の値段も暴落していました。売るには最悪のタイミングなので「もう少し待ってほしい」と言っても、銀行は「早く売れ」の一点ばりです。夫が所有していた絵画のなかには、今持っていれば100億円近くの値がつく作品もありましたが、とにかく借金を減らさなくてはならなかったため、当時はそれを、泣く泣く4億円で売りました。
あの時売り払った絵画の1枚でも残っていれば、その後の経営も、もう少し楽だったかもしれません。
ただ、私はこんなふうに思います。人生、どこかで楽をすることもあれば、犠牲を払わなくてはならない時もある。私はあの時、財産をすべて失ったから、一生懸命に働いた。夫を支え、2人の娘を無事に育て上げるために必死にならざるを得なかったからこそ、今の私があるのだろう、と。
■病床の夫に代わり「社長」就任
病床の夫に代わり、私が銀座テーラーの社長に就任したのは2000年のことでした。夫が亡くなったのは、その3年後。享年58歳でした。
実は夫が亡くなる前、辞めた社員が顧客名簿とロゴを持ち出して銀座に新しい店を出しました。しかも、彼らはこの時、お客様の寸法が書かれた型紙を改ざんしてから出て行ったのです。これも商売の現実です。
その時は悔しくて、悲しくて、法的手段に訴えることも考えました。しかし、時がたってみれば、そんな必要はなかったことがわかりました。
裏切った元社員たちのお店は、10年もすると銀座から姿を消していました。一方で、多額の負債を抱えながらも、私たちは生き残った。
子供のころ、父にさんざん聞かされた言葉を思い出しました。
商売に大事なのはまず信用、お金は後からついてくる――。何はなくても、私はこの「信用」を大事にしながら店を守っていこうと決めました。