カトリックとプロテスタント、日本国憲法に対する2つの立場の相似

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カトリックから、聖書は世俗語に翻訳され、グーテンベルグが印刷機を発明して民衆に聖書が広まる。もちろん、世俗語とは言っても、読める人は多くはなかったのだろう。
そうなると、神父の言っていることはおかしい、聖書にはそう書いていないじゃないかという、抗議が発生する。
つまり、長い年月の間に、カトリック協会は、いわば、「解釈改憲」を積み重ねてきたのである。
そうなると、素直に素朴に聖書を読む人たちとの間で解釈の違いが生じる。
そしてプロテスタントが発生する。
だからプロテスタントのほうが原書に忠実で、あくまで、書いてあることをそのまま信じようと言う、
原理主義的な態度といえる。
戦後70年を経た日本でも憲法に関して似たようなことが言える。
権力者は自分たちに都合のいいように解釈改憲を積み重ねる。
しかし素直に素朴に憲法を読む人たちは、それはおかしいじゃないかと抗議の声を上げる。
だから、概ねを言うと、内閣法制局が政府の憲法解釈を提示していて、それがカトリックである。
それに対して、在野の護憲派はプロテスタントの立場になる。
そして現在の安倍政権は、従来の内閣法制局が政府の憲法解釈を破棄して、より一層護憲派から遠い地点に飛び去ってしまい、それは従来の「保守」からも支持されない状態に至っている。
これはカトリック、プロテスタントの間に典型的に見られる対立関係を超えてしまっている、逸脱とも言える現象であろう。
内閣法制局の憲法解釈なんかとても肯定できない、
素直に日本国憲法を読めば、私にだって分かる、
その場合、戦争とは何かとか、軍隊とは何かとか、専門的な話が進行することになるが
もっと単純に戦争や軍隊を考えていいと思う
そのことについての必死の議論の積み重ねが戦後続いてきたけれども、
日本から革新が消えるに従って、
そうした積み重ねの遺産も忘れられてしまった

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中央集権的世俗権力や宗教権力を信用しないというのは、アメリカの建国以来の伝統で、
だからアメリカの保守は、貴族を信用しない、大きな政府を信用しない、税金をとられるのは
否定する、フランスで発生したような革命が結局民衆を抑圧する巨大権力を産んだことにも警戒する、
いわば理性による計画を現実は支持しないと理解していて、それがアメリカの保守なのである。

リベラルというと進歩的という意味も含むが
もともとの意味は「自由」である

コンサーパティズムは「保守」である

アメリカにおいては共和党の保守がリベラルであったということになる
民主党は平等を受け持つことになる

だから、政府が税金を徴収して、されを再分配することでほどほどの平等を実現しようなどというのは
アメリカの保守は反対する。
イギリスが税金をもっと取ろうと画策していたことに対して
反対したのが独立のきっかけになった。
国家権力が平等を実現しなくても、市場原理で平等が実現できないか、模索する。

何かで成功した人がいたら、
他の人もそこに参入できるように参入規制をなくしてしまう
そうすれば、努力する人は成功分野に参入して、
既存の成功者の富の独占を是正できるはずである。

現在貧乏な人は大きな政府に期待するのでどちらかと言えば
民主党よりのはずであるが
現実にはそうでもない
そこには福音派のこととかティーパーティののこと、人種や貧困のことが関係していて
複雑になっている
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