中島敦の想定する着地点は、もう文学の完全に向こう側

「山月記」は「最後まで反省が足りない人」を書いた残酷な話なんだよね。「表現」という制度の限界を書いた「表現」ということもできる。
中島敦はブッキッシュな文学者だけど、その立ち位置はじつは文学の外だったんだなーとわかる。
「山月記」の李徴は「俺のやってたロックって、ロックじゃない世間を見下してるつもりで、ほんとは自分が世間を怖がってることを直視できないただの自己欺瞞だったんだ」って懺悔した舌の根も乾かぬうちに「それでは最後に1曲、聴いてください」と言う! ホントに反省した奴の言うことじゃねーよ!w
これを暴き立てちゃう残酷な中島敦の想定する着地点は、もう文学の完全に向こう側なんだよね。それを古典の再話という形でやっちゃうという手の込んだ仕事。しびれる。憧れるゥ。