国という単位

“イスラーム世界の本当の問題は、無知や無学、です。
ムスリムであっても、クルアーンを読んだことがない、イスラームの教えを学んだことがない、という人たちが、イスラーム世界に大勢いること、です。”

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だから教育しようということになる
すると教育をコントロールして支配を永続的にしようとする権力者が出現する
権力者が教えたいことだけを教えるようになる
結果として愛国者が登場する
最後は突撃して死ぬ

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実際には個人が自由に宗教を評価して選択するのではなく
親がキリスト教だから子供は自動的にキリスト教とか
親がイスラム教だから子供は自動的にイスラム教とか
多いわけです

「国」も同じようなもの
いろいろ研究した末に
自発的にその国が好きだからその国に住んでいるというよりは
たまたまその国に生まれたから
その国が好きだと言っているだけのひとが多いだろう

もちろん信教の自由はあるので
親は強制するわけではないです
子供が無神論者になっても、不可知論者になっても、それを尊重すべきです
しかし実際はそうではない
信教はまことに不自由なのである

そしてイングランドとスコットランドとか
インドとパキスタンとか
宗教対立のゆえに生きる理由と死ぬ理由を見つけている場合もある

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いま、ユーロでは「国」という単位が解体に向かい、
もっと大きな共同体と、もっと小さな地域に分解しつつある

また、国境を超えて、企業も宗教も拡大しつつある

大きな共同体を支える理由となるのは民主主義とか市場経済とか自由と平等とか法治主義とか
そんなものだけれども
それを言っている人がどうも意味をよく分かっていないし
自分でその言葉と逆のことをやって平気でいるから
驚くけれども、人間は結局そういうものだったと言えないこともない

ナチス・ドイツを倒すためだったら
汚い方法でも正当化されたという歴史もある

しばらくは「国」というものが単位であった
言葉も教育も、文化も、税金も、予算配分も、警察権力も、軍隊も、王様も大統領も、国が単位
国が単位で戦争をして、でたらめな情報に踊らされた

日本も昔は藩のために命を捧げるとか
大名のために生きるとか
あたりまえのように言われていたと思う

通信と交通が進歩して言語共有が進行して
村落単位から藩単位へ、そして国単位へと意識は変化した

その先の進化をユーロは実験しているのだけれども
その進行方向に強烈に反撃する形で反動的勢力が異民族排撃を訴え、強い支持を受けている

人間の身長体重、視力、聴力、知能指数などから、
適切な集団の大きさというものが算出されるのだろう

そして人類のためなら命を捨てられると言い出す

それが当たり前になった時点で
そのような愛着の正体が何であるか評価できるようになるのかもしれない

それまでは、悪魔のような敵が攻めてきて皆殺しにされると叫ぶ勢力に翻弄されるだろう