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実は苦行はやってみればわかるけど、それを通して現実的な心の苦しみから面白いぐらい逃れられる。ランニングなんかをやったことがある人はわかると思うけど、苦しいながらも何キロか走ると徐々に様々な考えが心に浮かんできては消えたりする。そしてこれをひたすら続け、何キロもの距離を走るうちに段々と意識が先鋭化していき、そのうち意識は右足と左足を交互に運ぶ事だけを考えるようになる。これをさらに何キロも何キロも続けていくと、今度は「肉体としての自分」はただ足を前に出すだけの事を認識している一個の存在になりさがり、何も考えられない無の境地のような状態になっていく。
これを続けていき、このまま意識が集中して意思が消えてしまうと思うようなレベルでの深い集中状態に落ちると、今度は苦しみを受けている体とは別の意識が心のどこかかから立ち上がってくる。この別の意識は不思議なことに、今現在感じている肉体としての苦しみについてではなく、日常生活の何気ない事だったり、昔あったよかった事、懐かしい思い出などで占められている。この境地に至ると、肉体として走っている自分とその行為を通して苦しみを受けている心の中の自分は実は同じ肉体にありつつも、別々のものであるという認識が段々と出てくる。
この境地にある程度慣れ親しんでくると、不思議な事にどんな酷い事を考えようが日常生活での不安だとかから一時的に開放される。体というものを酷使し肉体に苦しみを与えることで、現実世界では直視できないような耐えようもなかった精神的な苦しみから一時的に逃れることができる事を心の底から体得するのである。これをさらに詳しく自分で認知しなおしていくと、人は心と体が段々と別のものであるという事を脳の底から認識できるようになる。この認識を通して「体としての自分」と「心としての自分」は実は同じ体に共存しつつ別の次元にも存在しているという事実を深く理解できるようになる。
これが苦行を通じて四苦八苦から逃れられる仕組みであり、よく新興宗教だとかがいうところの「修行を通じて苦しみから逃れる」ということは、実は現実から目を背けることと同義なのである。右の手の痛みから逃れたければ左の腕を切り落せばいい。そうすれば右手の痛みなど何処かへいってしまう、とでも言えばいいだろうか。精神・肉体的な苦痛を感じている自分と、体としての自分が異なる存在であるという事を理解できると、いい意味でも悪い意味でも苦しみから逃れることができる。これが苦行を通じて得られるものなのである。
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