"よく言われる話に美人コンテストがある
美人コンテストでは「世間の人の多くはこの人に投票するだろう」という客観的側面の予測と
「自分としてはこの人に投票する」という主観的要素があり、
両者は一致する場合も一致しない場合もある
一致しない場合、その人は自分を少数派だと位置づけて自己認識する
自分が主観的にどの人が好みかについては
あまり問題はない
他の大勢がどの人を好むと自分が予測するかについては、
ある程度自分の主観と、世間全般の人の主観とのずれを、
客観的に認識していなければできない話なので、なかなか複雑なことを考えていることになる
この、他人は何をどう判断しているか、その理由は何かを
理解していないと、公共の場での議論というものが成立しない
議論をしても、嘘をつく、論点をずらす、一般化する、特殊化する、感情的に挑発するなど、
議論とは言えない状態で、
それがテレビに映し出されるのであるから
教育的には誠にみっともない
時々は論点をずらすなどのテクニックを使っても良いけれども
最初から最後まで逃げ回っているだけの話だと議論にも何もならない
まことにがっかりである
公共の場での議論は理性により判定しつつ、
議論を進行させるのだという話し合いの基本を共有しないといけない
その空間を共有するときには
上記のような大多数の他者が何をどのように理解しているかを理解していることが重要で、
しかもその上に、神、超越者、最終審判者などの観念が必要なのではないだろうか
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しかしまた一方、論戦を挑む側も、本当に廃案にするつもりもないらしく、
同じ質問をいつまでも繰り返している
故郷の有権者に向けての花の舞台という意味で言えば、
質問者それぞれが一回きりの晴れ舞台なので
他の人と質問がかぶっても気にしないようである
有権者向けに分かりやすい質問をするということらしい
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