低い目線が正義である社会

テレビニュースで『子供がプランした四国旅行』の販売とか、そんな感じのものを紹介していた

子供が実際の損得勘定を精密に出来るわけではないから
子供の発想を活かして、大人の商売人が、儲かるようにプランした旅行商品という意味になるだろう

ここでも、子供らしい、純真無垢、素朴、損得のない、まごころのこもった、という連想ができていて、
小学校の先生が黄門様の印籠のように使う「子供目線で」を応用している

同様に「主婦目線で」「素人目線で」などは、汚い商売勘定に汚染されていない、柔らかで、はっとさせるような発想であるはずなのである
つまり、世の中に、専門家などいらない、プロなど要らないと言っているようなものである

実際、障害者のクラシック音楽ということで商売をするテンプレートは出来上がっているし
オリンピックはテレビ画面の中でだけ熱くなっていたし
(実際、報道陣が2週間以上もホテルに缶詰になり、オリンピック選手の若い肉体の爆発を目の当たりに見ていれば、報道陣の夜の活力も熱く燃えるはずである)
貧しい言葉がインフレを起こすので「すっごく」「とっても」ばかりを言い続ける
書道家は偽物を書いて知事賞を架空の人物に与えていたし
これらに一貫して、どうせ一般人に価値判断など出来ないという前提が見えている
(東京オリンピックエンブレムのパクリ問題は、一般人にはパクリに見えるだろうが、
専門家にはパクリとは全く見えないとのことだ)

子供と同じ目線でとか
障碍者と同じ目線でとか
言うだけで、本当は大人の打算の産物なんだけど、それが商売になるのだ