“「核開発に反対する物理研究者の会通信」から藤田祐幸氏の記事を紹介し参考に供します。2006年頃らしい。
わが国の核政策史 ― 軍事的側面から ―
平和利用三原則
1951年9月8日、サンフランシスコ講和が調印され、翌52年4月28日に対日平和条約と日米安保条約からなる講和条約が発効し、GHQによる支配から日本は開放された。
その直後の5月に吉田茂率いる自由党は科学技術庁設立案を明らかにした。
その付属機関は核兵器を含む科学兵器、原子力の開発研究を目的とする、ことが明記されていた(原子力年表・原産会議編)。
わが国の政権党は広島・長崎の惨禍からわずか七年後に、米国占領の終結を待ちかねたように、核保有の意思を表明した。
この動きに対し、竹谷三男は52年10月の雑誌「改造」に「日本の原子力研究の方向」と題する論文を発表し、原子力平和利用開発の三原則(民主・自主・公開)を提唱した。
この提案を受ける形で開かれた10月24日の学術会議の総会で、原子力委員会の設置を求める茅・伏見の提案が、会場からの強い抵抗に会い撤回されるなど、研究者側の足並みに乱れが見られた。
改進党の若き代議士中曽根康弘を中心にした保守三党による原子力予算が54年3月2日に提案され、これが電撃的に成立し、日本の原子力開発への道が切り開かれた。
中曽根予算案提出の前日の3月1日に、焼津のマグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁で、米国の水爆実験により被災していたが、14日の帰港まで国民はそのことを知らなかった。
研究者の意思を無視した予算成立に対し、学術会議は4月23日に抗議の意思を明らかにすると同時に、平和利用三原則を改めて表明した。
政府は学術会議の要請を受けて、平和利用三原則を盛り込んだ原子力基本法(資料1)を55年12月19日に成立させた。
基本法成立に伴い、政府は正力松太郎を委員長に据えた原子力委員会と、これも正力松太郎を長官とする科学技術庁を56年4月までに相次いで発足させた。
学術会議派の科学者は、自由党の核開発の目論見を水泡に帰し得たのか、その後の推移を見なければならない。
原子力時代の始まり
この間、1955年11月には自由党と民主党が合同し、鳩山一郎自民党政権が成立し、両院原子力合同委員会委員長を務める中曽根康弘が自由民主党副幹事長に就いた。
中曽根は自由民主党憲法調査会理事も兼務していた。
中曽根・正力がこの時代の原子力政策を牽引することになる。
50年代前半のこの国の原子力は強力な政治主導で行なわれた。
国と産業界の動きはにわかに慌しくなる。
55年12月には藤岡由夫を団長とする初の調査団が欧米の原子力事情調査のため出発する。
調査団が帰国するのは翌56年の3月であった。
同年4月には通産省工業技術院に原子力課を新設、経団連は「原子力平和利用懇談会」(藤原銀次郎会長)を発足させ、財界も原子力に乗り出す。
藤原調査団は5月に報告書を提出し、天然ウラン重水型の多目的原子炉の建設と、ウラン・重水・黒鉛の国産を提言した。
6月には日米原子力協定が締結され、米国から原子炉と濃縮ウランが提供される道が開かれた。
米国は日本に提供するウランについて「いかなる場合にも、U235を最大限20パーセントまで濃縮したウランの中に含まれるU235の量において6キログラムを超えないものとする」(第三条A項)として兵器転用に歯止めをかけることを忘れなかった。
原子力委員会は茨城県東海村に原子力研究の拠点をおくことに決めたのが56年の4月、同年8月には運輸省も原子力船建造に意欲を見せ、同じ頃、三菱金属鉱業の高橋孝三郎を理事長に原子燃料公社が設立された。
この原子燃料公社が後の動燃の母体となる。
56年までに政府の方針は、米国の協力を得ながらも、ウランと原子炉の自力開発を目指すものであった。
原子燃料公社は精力的に国内のウラン鉱の探査を行なった。
原子炉の開発は東海村の原子力研究所(原研)の研究者の手に委ねられた。
そこには平和利用三原則を基本法に盛り込むことに奔走した科学者達が結集していた。
第五福竜丸の被災と、南太平洋の核実験の放射性物質が国内にまで降下したことにより、杉並区の主婦が始めた原水爆禁止署名運動が、54年8月に全国協議会(会長安井郁)にまで成長し、戦後最大の反核平和運動が組織されて行く。
もちろん、平和利用三原則を提唱した科学者達も、何の違和感もなくそこに合流して行くことになる。
国主導で爆発的な勢いで展開される原子力推進路線には、当初電力業界は懐疑的であったように見える。
57年になって、電力九社はそれぞれ原子力発電計画の策定に入るが、当面は国策会社である日本原子力発電㈱(資本金40億円、電源開発㈱20%、民間80%出資、社長安川第五郎)を受け皿として設立(57.11)し、様子を見ることになった。
日本原電は、東海村にガス冷却黒鉛炉であるコールダーホール型原発と、敦賀にBWR型原子炉を建設して、受け皿としての役割を終えることになる。
核兵器保有は合憲 ― 岸発言
1957年2月に政権の座についた岸信介は、5月7日の参議院で、自衛権の範囲内であれば核保有も可能であると答弁し、59年3月2日の参議院予算委員会でも、防衛用小型核兵器は合憲であるとの判断を明らかにした。
日本政府が核武装合憲論を強調するのは、後の佐藤政権の時もそうであるように、日米安保改訂時に時期的に重なることに着目する必要がある。
60年に岸内閣は日米安保を巡り混乱を極めるさなか、「自衛のための必要最少限度を越えない戦力を保持することは憲法によっても禁止されておらない。
したがって、右の限度に止まるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わずこれを保持することは禁ずるところではない」として、核兵器保有は合憲との判断を政府見解として確立し、今日まで(村山内閣時代を経ても)変更されていない。
しかし岸内閣時代までの日本の核政策は、ただひたすらウラン探査を行い、原子炉を建設し、原子力船を建造するなど、国家政策としての原子力開発には、一貫した具体的展望は確立されていなかったように見える。
佐藤栄作の核武装カード
岸信介の実弟、佐藤栄作は隠れもなき核武装論者であった。
岸内閣の後を継いだ池田内閣時代に佐藤栄作は頭角をあらわす。
1961年7月に発足した第2次池田内閣に通産大臣として入閣し、63年12月に成立した第三次池田内閣では科学技術庁長官に就任した。
そして、64年11月9日、佐藤栄作は首相に就任することになる。
沖縄返還を最大の政治課題であるとして登場した佐藤内閣は、同時に、日本の原子力政策を大きく転換させることになる。
首相就任直後の65年1月、訪米した佐藤は、ジョンソン大統領との会見の後、別室であったラスク国務長官や椎名悦三郎外相らのアジア情勢の協議に合流した時、ラスク国務長官からから、「中国が核武装したことに日本はどのように対応するか」と問われ、「日本人は日本が核を持つべきではないと思っている」と答えたあと「一個人として佐藤は、中国共産党政権が核兵器を持つなら、日本も持つべきだと考えている。しかし、これは日本の国内感情とは違うので極めて私的にしか言えないことだ」と答えた(2001年9月23日、朝日新聞)。
沖縄返還交渉を始めるその最初の段階で、佐藤栄作は日本の核武装を外交カードとして使ったことになる。
そして、これが単なる“はったり”ではなかったことも後に明らかになる。当時のアメリカ政府は日本の核武装を容認してはいなかった。
非核三原則への道筋
1965年8月、佐藤は戦後の首相として始めて沖縄の土を踏んだ。
沖縄返還が不動の政策であることを内外に誇示するのが目的だった。
そこで「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終らない」との名せりふを残した。
当時のマクナマラ国防長官は「問題は返還ではなく米軍基地にある」(「楠田實日記」・中央公論社)と発言し、中共(当時中国はしばしばこう呼ばれていた)の脅威に対する沖縄基地の役割を強調し、施政権の返還は容認しつつも核を含めて基地の存続を強く求めた。
佐藤は、沖縄が返還されれば国内法と日米安保が沖縄においても適用されることになるとして、核抜き・本土並返還を国民に約束した。
しかし同時に佐藤は、もし米軍が沖縄から撤退すれば日本は独自に核武装する道を選択肢として残していた。米国はそれを熟知していた。
交渉は難航を極めた。施政方針演説原案を審議した68年1月26日の閣議で、中曽根運輸大臣から、核保有せぬだけではなく持ち込みなど非核三原則をはっきり書くべきだと強い要請があり、その結果「保有せず」のあとに「持ち込み許さず」を追加したと、楠田日記は記している。
2月3日の楠田日記には『「非核決議案に反対の理由」をまとめる。若泉敬氏が核政策四本柱(日米安保条約、非核三原則、核エネルギー平和利用、核軍縮)を考えてくれた。すっかり若泉氏に頼る昨今だ』とある。
この段階で、佐藤は国会での非核決議には反対の立場をとっていたようだ。
その答弁の内容は未だ入手していない。
その後日米間の密使として活躍する若泉敬(当時京都産業大教授)の政策決定過程への関与もここに如実に描かれている。
68年9月16日の楠田日記には、『「岐阜であれだけの話をしたのだから、一人ぐらい核を持てと言う者がいてもいい。いっそ核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」、楠田「それはちょっと早いですよ」、重大な会話となった。』とある。
外部には「核抜き本土並み」と言いつつ、背後で核持込密約を、また表向きは非核三原則を言いつつ、実は核武装プログラムを遂行するなど、佐藤栄作の政治の表と裏の乖離ははなはだしい。
料亭に向かう車の中という私的空間で、信頼厚い秘書に向かってのこの発言は、佐藤の本心が顔をのぞかせたものとして興味深い。
69年1月20日に政権についたニクソン米大統領は、アメリカの直接的な対外軍事介入をひかえて、同盟国の協力をうるとともに東側諸国とも積極的に交渉や取り引きをおこなおうとする新方針をうちだした(ニクソン-ドクトリン)。
日本政府はこの新たな交渉相手の方針に困惑した。
ベトナム北爆停止が日程に上り、米軍の沖縄からの撤退の可能性も論議された。
交渉が大詰めを迎えた69年6月には、佐藤は若泉に信任状を作成し、秘密の個人特使としてホワイトハウスに送り込んでいる。
ここで表向きは核抜き・本土並み返還を表明しつつ、背後では基地の核付き現状維持の密約が成立することになる。
ニクソン-ドクトリンを沖縄にも適用し、基地を引き上げれば日本は独自に核を持つことになるという日本側の主張に対し、米国は、日本を米国の核の傘の中に位置付げることを保証して、核武装を思いとどまらせようとした。
米国の核持込密約(有事の際は米軍の核の傘で日本を守る)と、日本核武装放棄が取引され、公の場で日本の非核政策を鮮明にすることが求められ、その結果が非核三原則の表明につながったと見ることができる。
69年11月19日に佐藤ニクソン会談が行なわれ、沖縄返還の基本合意が成立した。
この時の楠田日記には「沖縄問題は核を含めて決着したが、米側の議会工作のため、厳重な緘口令。いわゆる核抜き・本土並みが貫かれた」と記している。
帰国後の11月26日、佐藤は改めて非核三原則の堅持を国会で表明した。
71年11月24日、社会党の欠席の元に沖縄返還協定が成立し、同時に非核三原則が付帯決議として衆議院で採択された。
吉田茂以来日本政府は一貫して核保有は合憲であると言い続けてきたが、佐藤政権は初めて国策としての非核を鮮明にした。
アメリカは日本の核武装断念に安堵し、その結果が、74年の佐藤栄作ノーベル平和賞受賞に結実した。
ところが、ノルウェーのノーベル賞委員会は2001年に出版した「ノーベル平和賞・平和への百年」の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」などとし、「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」であったとして当時の選考委員会を批判している(2001年9月5日、朝日新聞)。
核武装研究
佐藤栄作が日本の核武装をカードに沖縄返還交渉を行っていた時期に、日本政府中枢にはただならぬ気配が漂っていた。
外務省、防衛庁、海上自衛隊幹部などが、それぞれ別個に日本の核武装の可能性についての研究を行なっていたことが次々と判明した。
この一連の研究が行なわれたのは、佐藤栄作が非核三原則を国是とすることを公式に表明した時期と相前後する。
当時(1969年から71年まで)海上自衛隊幕僚長を勤めた内田一臣は、「日本の防衛のために核兵器がぜひ必要だと思って、それなりの研究も(個人的に)していた」(毎日新聞1994年8月2日)と語っている。
内田は、日本防衛の最大の脅威は極東ソ連海軍であり、特に原子力潜水艦の存在は、当時の海自の対潜能力では対処のしようがなかった、という。
そこで強力な威力を持つ核兵器があれば相手の大まかな位置を知ることが出来るだけで、打撃を与えることが出来るとして、戦術核の先制使用が効果的と考えた。
内田は「研究は個人的なもの。軍事の専門家として当然のこと」と語るが、この時期に「核搭載可能な原潜の必要性が政官で議論されたり、米軍から原潜供与の情報が持ちあがるなど、個人的意思を超えた動きがあった」と毎日新聞は指摘している。
また、外務省も69年に「わが国の外交政策大綱」なる極秘文書を作成していたことが明らかにされた(毎日新聞94年8月1日)。
それによれば、「当面核兵器は保有しない政策はとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャル(能力)は常に保持するとともに、これに対する掣肘(せいちゅう)を受けないよう配慮する」「核兵器の一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの趣旨を国民に啓発する」などと書かれている。
作成したのは68年頃内密にスタートした「外交政策企画委員会」、外務審議官が委員長になり、各局の次長・審議官が69年5月から9月にかけて会議を開きまとめたという。
自衛隊や外務省がそれぞれ核武装の研究に着手する前に、防衛庁に属する「安全保障調査会」は「日本の安全保障(1970年への展望)」(朝雲新聞社刊)と題する冊子を67・68年の二ヵ年にわたって公表し、具体的に日本の核武装の可能性を論じている。
67年版は政策的議論を、68年版は技術的議論を中心に編集されている。
この一連の動きを見れば、佐藤内閣時代に、外務省と防衛庁が連携して日本の核武装の可能性について研究していたことは明かだ。
佐藤は徒手空拳で、ジョンソン相手に“はったり”で核カードをちらつかせたのではなく、また米国政府はそれを知って、本気になってこの核武装論者を押さえにかかったことが、この一連の資料によって明らかになった。
防衛庁の核武装研究報告
ここでは私達(核開発に反対する物理学者の会・代表槌田敦)が入手した防衛庁安全調査会による二つの報告、1967年版と68年版によって、当時の政府が考えていたことを整理する。
(1)われわれは核武装に賛成ではない
わが国の核兵器生産潜在能力を検討する文書の冒頭に、この研究の位置付けの項がある。
「憲法の規定をはじめ、現在の政治、社会情勢は、とても核武装を認める状態ではない。もっとも、経済的あるいは技術的な面だけからみた場合、日本の核武装は必ずしも不可能ではない。」「法律上、政治上の制約をいっさい無視して、まったく白紙の立場からその能力を検討してみた。誤解のないように断っておくが、われわれの立場は、核武装に賛成ではない」(「日本の安全保障」1968年版(以後68年版)p293)とある。
(2)対象は中国だ
67年版には、日米安保によってアメリカはわが国を防衛する義務を負担しており、いかなる攻撃に対しても、ということは核攻撃に対してもと言う意味であることは明白だ、としながらも「仮にアメリカの約束が信頼できないとして、わが国が独自の核兵器を開発するとしたら、その軍事的意味は、どのようなものとなるであろう。この場合の核兵器は、結局ソ連とか中共とかに対しての武器として考えられるから、当然攻撃的な核兵器でなければならない。防衛的な核兵器をいくら積み重ねても、それは相手方に何の脅威をも与えないから、相手の行動を制約することにはならず、抑止力として働かない。 相手を制約する場合の目的は、その攻撃企図を封止することであるから、敵を圧倒するだけの力のものでなければならない。ところがソ連を対象として考えると、これは全然問題とならない開きがある。(略)結局、核兵器開発の意味としては、中共との関係が残るだけである。」と述べ、さらに、中国の核武装(実験・1964年10月)に伴い、日本とインドが核武装することは当然の成り行きであるとしている。
さらに「たんげいすべからざる隣人の、不測の行動に備えるためには、その隣人の持つ打撃力と同等以上のものを持たなければ、安心できないのは、人間の性質として自然の結論である」とも述べている。
(3)プルトニウム原爆が妥当である
広島型のウラン原爆、長崎型のプルトニウム原爆、それに核融合反応を利用する水素爆弾のそれぞれの利害得失を検討し、プルトニウム原爆が妥当であるとしている。
広島型ウラン原爆について、「原爆一発分のウラン235所要量を約10キログラムと仮定すると、これを製造するのに必要な天然ウラン量は3~5トンと考えられる。日本のウランの埋蔵量は(中略)約3000トンといわれている。したがって日本中のウランを残らず掘り起こして使用したとしても、入手できる原爆数は約1000発かそれ以下である」。
「年間に天然ウラン500トンを処理する濃縮工場が建設されたと仮定してみる。そしてこれは98パーセント濃縮ウランを生産する工場であるとする。(中略)外国の例を用いて工場建設費を推定すると(中略)原爆一発分の原価は一億円程度になる。」と述べ、ウラン原爆(広島型)製造に消極的態度を表明している。
しかし、プルトニウム原爆について、「ウラン238に中性子を吸収させてプルトニウムを作るには特別の施設は必要としない。平和利用目的に使用されている通常原子炉の運転方を変更するだけで容易に達成出来る(68年版306頁)」とし、民間の発電用原子炉の使用済み燃料からプルトニウムを抽出する方法が最も優れているとしている。
(4)求むるは軽水炉級プルトニウムではない
「通常の中性子作用時間で、軽水炉で生産されるプルトニウムの組成(Pu239、65%)では、原爆用としてはとても使えない」(同312頁)とまず断言した上で、黒鉛炉について次のように述べている。
「軍用プルトニウムの専用生産原子炉を現在持つ国は、米、英、仏、ソの四カ国である。これらの生産炉はほとんど例外なく黒鉛減速型炉と呼ばれる物であり、特に原子力発電用として英国等で多数用いられているコールダーホール型原子炉は、まったくこのプルトニウム生産炉の一変形にしか過ぎない」(68年版308頁)。
軍事用プルトニウムの組成は98%以上が必要であるが、東海原発は黒鉛減速型炉であって、これを軍事炉として使うことは可能であるとし、次のような試算を行なっている。
東海炉を軍事用プルトニウム炉に転換した場合、必要な濃度のプルトニウムを得るためには、「中性子の作用時間を5分の一程度に短縮する必要があるから、年間取替え量は約5倍の約300トンが必要となるだろう。この場合、軍用として使用できるプルトニウムの生産量は、取り替え燃料一トン当り約0.8キログラム程度であり、年間プルトニウム生産量は約240キログラムとなろう。これは、少なくとも原爆材料として、年間20発分ぐらいに相当することになる。ただし、この場合は原子力発電は全く不能か、または通常経済べ一スでは行ない得ないことになる」(同314頁)と極めて具体的に検討が加えられている。
また、目的変換を行なわずに、つまり発電を通常通り行なって秘密裏に軍用プルトニウムを取り出す場合についても検討されていて、その場合には「年間取替え量は60トンであり、プルトニウム生産量は年間約180キログラムであるが、その大部分のプルトニウムはプルトニウム240、241、242を多量に含んでおり、原爆に使用できる部分はごく少ない」、「原子炉の周辺部分では中性子の量が少ないので、中性子の照射時間が長くても、結果的にこの部分から出てくるプルトニウムは、プルトニウム239が主成分となる。(略)この部分からのプルトニウム生産量は、約年6~10キログラムになり、これは原爆約一発分に相当しており、東海炉を運転すればこれを生産するのは困難ではない」。
(5)再処理は動燃東海で
さらにこの黒鉛炉から取り出した使用済み燃料からプルトニウムを抽出する再処理に付いては、「わが国では旧原子燃料公社(後の動燃)が、多年にわたり英・仏の技術をもって設計してきた再処理工場が近く建設を開始出来るところまできている。昭和40年(1975年)までにはこれが稼動していると考えて良い。この再処理工場の技術的問題はほとんど解決できているといってよく、まったく時間の問題である」としている。
その後米国はこの東海村の再処理工場の建設に介入し、軍用プルトニウムを分離回収することが困難になるよう設計変更を求めた。
日米再処理交渉は曲折を経て1977年9月に妥結し、11月に試験的なプルトニウムの抽出に成功した。
(6)弾道ミサイルの開発を急げ
報告書はさらに、核爆発の核反応の問題核兵器を搭載するミサイルの開発の見とおしなどについて検討を加え、東京大学生産技術研究所の開発したロケットについて次のように評価している。
「65年5月には、直径1.4メートル、全長12メートルの大型ブースター、ミューM10の地上燃焼実験に成功し、翌年10月末に2段目はダミーだが、ともかく重量43.3トンのミュー1型の飛行実験に成功した」(同320頁)として、更に、構造体の高抗張力鋼の技術開発の現状、固体燃料の性能、ロケットの推力、誘導システム、などを具体的にフランスのロケットとの比較を行ないその差は僅少であるとして、将来有望であることを強調している。
(7)ミサイル潜水艦の開発
「わが国ではICBM、またはそれに準ずる弾道兵器の開発が将来行なわれるとした場合、当然現在の核時代の構想から見て、その非脆弱性が問題となろう。日本のような国土狭隘な国で、しかも人口密度の高いところでは、地下サイロ基地のような、いわゆる硬基地化は、故障に対して有効ではない。また、日本の国土は大規模な地下機構の存在にとって、多くの地質的ハンディキャップがある。(中略)結局、わが国がICBM級弾道兵器を開発し、保有することがあるとしたならば、その発射台は潜水艦の可能性が強いものと考えられる」(同330頁)。
(8)民間航空機の利用
報告書には「各国の潜在核戦力の運搬手段を考える上で、案外見逃されているのは民間航空機、特に大型のジェット輸送機のもつ能力である。諸外国では当然の事ながら、民間航空機の高性能のものは、平時から緊急時に際して戦時編成への転用を建前としている」
「現在、日本航空が太平洋線の貨物輸送に使用しているDC8F型というジェット貨物機は、実に最大43トンの貨物を一度に積み込み、4700カイリの航続力がある。さらに69年から日本航空の路線に投入されるDC8-61型という新型は、それより数トン多く積める上に、積荷を減らせば、日本から米本土西海岸までノンストップ飛行可能という長距離性能をもつ。」
「数年後の日本国籍大型輸送機の数は100機を越えるのは確実だ」
「ドゴールの強硬外交のバックをなすフランスFASは、ミラージュ型36機とKC135給油機12機であるから、日本航空のDC8型改造給油機48機と、戦闘爆撃機48機で戦略空軍を編成しても、決して見劣りするものではない」(337頁)とこの報告は結んでいる。
ウランからプルトニウムヘ
非核三原則と沖縄返還をセットに推し進めた佐藤内閣は、同時に日本の原子力政策の根底的見直しに着手する。
佐藤栄作は首相就任以前の科技庁長官時代(1963年12月~64年6月)からプルトニウムヘ関心を見せていたことは、64年2月19日に原子力委員会に「高速増殖炉懇談会」を設置していることからもうかがえる。
佐藤ジョンソン会談で核武装発言をした65年には、原子力長計の見直し(3.4)、衆院科学技術特別委に動力炉開発に関する小委員会設置(5.12)、原子力委動力炉開発懇談会に二つのワーキンググループ(新型転換炉、高速増殖炉)設置(7.6)、原子力委が動力炉開発の進め方を検討するための調査団を欧米に派遣(10.16)、閣議で原研と英AEAの流体金属冷却型高速炉の情報交換協定了承(12.14)と、一連の作業が精力的に行なわれた。
この方向は明らかにウランからプルトニウムヘの路線変更を意味する。
この流れは67年3月の「動力炉・核燃料開発事業団法」(動燃)の成立へたどり着く。原子燃料公社を解体し動燃が発足したのはその年の12月であった。
新たに設立された科学技術庁傘下の特殊法人「動燃」に与えられた任務は、高速増殖炉(FBR)と新型転換炉(ATR)の開発と、それに伴う周辺技術の開発であった。
原子力開発研究のために、すでに同じ科技庁に特殊法人「原研」が設立されていた。
同じ省庁の元に同じ目的を持った、二つの法人が並存すること自体が異例のことであるが、平和利用三原則派が支配する原研では出来ない仕事を始めようとしていたからであったにちがいない。
69年6月には同じ科技庁の元に新たな特殊法人が設立された。「宇宙開発事業団」であった。
原爆の作リ方
原爆を作るには三つの方法がある。広島型のウラン爆弾、長崎型のプルトニウム爆弾、そして戦術核としての高性能小型プルトニウム爆弾である(図1)。
広島に落とされたウラン原爆は、ウラン濃縮工場で核分裂性ウランを95%程度まで濃縮された高濃縮ウランが使われる。工程は最も簡単で、起爆も容易であるため、マンハッタン計画で最初に取組まれ、しかも実験をせずに実戦で使用するだけの信頼性があった。
しかし、天然ウランには0.7%しか含まれていない核分裂性ウランを高濃度に濃縮するために、防衛庁1968年報告にあるように、大量のウラン資源を必要とする。
長崎に落とされたのはプルトニウム爆弾であった。
天然ウランを燃料とする黒鉛炉の使用済み燃料を再処理することにより、核分裂性のプルトニウム239の濃度が93%程度の高純度プルトニウムを得ることが出来る。
日本に最初に導入された東海炉はイギリスで核開発用に製造されたコールダーホール型の原子炉であった。
防衛庁68年報告で、東海炉を利用することにより年間に量大で20発の核兵器を製造することが出来るとしている。
天然ウラン黒鉛炉は核開発が最も容易な原子炉であると言えよう。
なお、軽水炉の使用済み燃料から抽出されるプルトニウムは、核分裂性プルトニウムの割合が低く(表1)、核爆発を起すことは可能であるが実戦用核兵器として十分なものではないことは、既に68年防衛庁報告でも指摘されている。
戦術核
佐藤栄作は第三の道を選択した。小型戦術核開発の道であった。
憲法の制約をもし考慮したとすれば、このほかに道はなかったし、世界の潮流が戦略核から戦術核へと移ることを予見していたとすれば先見性の高い選択であった。
この方法は複雑で高度の技術を必要とする。
北朝鮮が黒鉛炉を保有しようとしていることに憂慮した米国が、軽水炉を供与する(KEDO)ことで黒鉛炉計画の廃棄を迫ったのはそのためである。
軽水炉を持つだけでは、核開発までの技術的・経済的道のりはかなり遠くなるからであった。
まず、天然ウランを3.5ないし4.5%まで濃縮した核燃料を製造し、これを軽水炉の炉心に装荷して発電炉として稼動させる。
この使用済み燃料を取り出し、核燃料再処理工場でプルトニウムを抽出する。
このプルトニウムの組成は、核分裂性のPu239が58%、Pu241が11%で、合わせても69%にしかならない低純度プルトニウム(これを軽水炉級プルトニウムと呼ぶ)である。
このプルトニウムと天然ウランの混合燃料(MOX)を高遠(増殖)炉の炉心に装荷し、炉心を取り囲むブランケットに濃縮工場の副産物である劣化ウランを装荷する(図2)。
炉心で進行する核分裂反応により放出される中性子が、ブランケットの劣化ウラン(U238)を核分裂性プルトニウム(Pu239)へと転換させる。
このブランケットを再処理してプルトニウムを抽出すると98%もの超高純度のPu239を得ることが出来る(表2)。
真中の炉心に低純度の『汚い』プルトニウムを装荷すると、ブランケットからは高純度の『きれいな』プルトニウムが出てくる仕掛けだ。
フランスのスーパーフェニックスを訪ねた京大原子炉実験所の海老沢氏が持ちかえったパンフレットには、高速(増殖)炉の利点が列挙してあるなかに、『高速増殖炉すなわちプルトニウムの洗浄装置』であると書かれていた。
このプルトニウムを使えば小型軽量の高性能核兵器を製造することができる。トマホークのような小型ロケットに積みこみ、ピンポイントで戦艦や軍事基地を攻撃すれば、一発の弾頭で壊滅的な打撃を与えることが出来る。
小型水爆と組み合わせれば中性子爆弾を作ることも出来る。
大型戦略核は、大陸間弾道ミサイル(ICRP)に積みこみ、大都市を標的としたもので、これを使えば直ちに大規模な報復攻撃が行われ、地球規模での影響が懸念されており、そのことが核による抑止効果を持つとされてきた。
しかし、戦術核は局地的な地域紛争に適しており、通常兵器との境界が明瞭でないため、実戦で使用される可能性が極めて高い。
使える核兵器であるということができよう。国家そのものを標的とするのではなく、具体的な標的を個別に攻撃できる戦術核は、専守防衛を標榜するわが国にとって好都合の兵器であると言う事になる。
佐藤は早くもそこに目をつけた。
動燃に与えられた使命は、採算を度外視しても高速(増殖)炉を開発することであった。
東海村に再処理工場を建設し、大洗に高速実験炉「常陽」を建設し、敦賀に高速原型炉「もんじゅ」を建設し、ブランケットを再処理するために東海村にRETF(リサイクル機器試験施設:Recycle Equipment Test Faci1ity(図3))を建設した。
これが予定通り進めば20世紀末までに日本は戦術核開発の“技術的ポテンシャル”を確保することが出来るはずだった。
あとは、小型の固体燃料ロケットに“カーナビ”を積みこめば完成である。
「もんじゅ」事故とその後
1995年12月8日(奇しくも開戦記念日)に、事情を知る者であれば誰しもが憂慮していたナトリウム火災事故が「もんじゅ」を襲った。
この日から、佐藤栄作が構築した全てのシステムが、音を立てて崩壊を始めた。
97年3月の東海再処理工場炎上爆発事故は、ついに動燃の解体を余儀なくさせた。
省庁再編に伴い科学技術庁も姿を消した。
佐藤栄作が立ち上げた巨大な構想は、2000年までにその歴史の幕を閉じたと言っていいだろう。
しかし、それは第一幕が終わったに過ぎない。
動燃は「核燃料サイクル開発機構」と名を変え、虎の門の本拠を引き払って東海村に蟄居した。
近い将来、「開発機構」は原研と合併することになっている。
原研の初期のあの“毒”は消えたと判断したのだろう。
原子力政策の見直し作業が行われたが、結局国策としての原子力の位置は変わらず、「もんじゅ」の再開のための地元工作も始まった。
「もんじゅ」の燃料を製造するために建設されている六ヶ所村の再処理工場の建設も、ゆっくりと進められている。
もっとも奇妙なのは、「もんじゅ」のブランケットを処理するために作られているRETFの建設が続いていることである。
「もんじゅ」事故直後の97年8月には次年度予算からRETF関連予算の姿が消えたが、復活折衝によっていつのまにか息を吹き返していた。
「もんじゅ」の生死が不明であるのになぜその再処理施設の建設が進むのか、不思議に思っていたところ、2000年3月に「サイクル機構」が一つの文書を明らかにした。
「『常陽』及びリサイクル機器試験施設等の位置付けと研究開発の進め方」という文書がそれである。
「もんじゅ」という当面の目標を失ったサイクル機構が「常陽」を軸に体制を立て直そうとしている。
「基礎技術研究の実施戦略や、「もんじゅ」、「常陽」、リサイクル機器試験施設等の大型施設をより有効に活用する戦略を再構築し、それに基づき、より高度な高速増殖炉サイクル技術の開発を進めて行く計画である」と述べている。
どうやら“戦略”で苦慮しているらしい。
この文書には、高レベル放射性物質研究施設(CPF、Chemical Prcessing Facility)の名前が頻出する。
かつて、「常陽」の使用済み燃料から高純度プルトニウムの抽出に成功した施設だ。
「常陽」は初臨界から三度目の改装工事が終わり、現在はMK-Ⅲと呼ばれるシステムになっている。
99年のJCO臨海事故はこのMK-Ⅲのための新しい燃料を製造している過程で発生した。
MK-Ⅲの最大の特徴は、最高中性子束がこれまでの1.3倍に増え、「もんじゅ」と同等になったことである。
材料照射試験のためであるとされている。
しかし、この文書を読む限り、「常陽」とRETFとの関係が判然としない。
そこには書くに書けない隠された事情がある。
「常陽」には過去に照射した使用済み燃料が今も尚貯蔵されており、RETFが完成した暁には約40キログラムの超高純度プルトニウムを生産することが可能である。
高速実験炉「常陽」は現在中性子照射試験炉の機能を持っているが、それはちょうど「もんじゅ」の炉心から放出される中性子を、ブランケットのU238に照射するシステムと本質的に変わるものではない。
つまりわが国は、「常陽」とRETFとを組み合わせることで、核兵器級超高純度プルトニウムを製造する能力を未だ保持している。
核開発の歴史の幕は閉じていないのだ。
平和利用と軍事利用
佐藤栄作の秘書官であった楠田實の日記を紹介した2001年9月23日の朝日新聞は、「沖縄・政権を非核へ導く」「現実の政治に取り組み核武装論者も変化した」などの見出しでこれを報じている。
しかし、原子力の歴史と重ね合わせながらこれまでの推移を見る限り、佐藤が非核論者へ変貌したと言うことはなかったというべきだろう。
一つ疑問に思うのは、この非核三原則で日本の核武装はありえないと、米国政府までもが本気で信じたのか、という問題である。
楠田日記を紹介した紙面に、楠田本人のインタビュー記事が載っている。
佐藤さんは核武装論者ではなかったのですか、という記者の質問に楠田はこう答えている。
「67年に、党機関紙の対談で、石原慎太郎さんが『佐藤政権に足りないところがある。核武装論を言えばいい』と発言した。その時の佐藤さんの応答は『君より私のほうが考えが進んでいる』だった」。
朝日新聞は、佐藤は非核論者に転進したと信じているようだ。
佐藤の考えはさらに“進んで”いたようである。
マンハッタン計画により現実化した核技術は、ウランとプルトニウムを取扱う技術であり、そこから電気を作ろうが兵器を作ろうが、本質において変わりはない。
要るのは、濃縮工場と原子炉と再処理工場だ。
それを、電気を作るのは平和利用で兵器を作るのが軍事利用だと、分けるのが土台無理な話だ。
原子力の平和利用を標榜して原子力開発研究を行なった研究者や、平和利用を推奨し反核運動を展開した当時の進歩的知識人は、本質的な誤りを犯したといってよいだろう。
平和の名の下に進められた日本の核政策を担った、動燃の研究者や科技庁の官吏も、自分の行なっている仕事が、将来核兵器に転用される恐れがあることを考えたこともなかったに違いない。
平和というお題目が全ての思考回路を遮断していたからである。その平和と言う言葉も今ではだんだん輝きを失いつつある。
二幕目の開演のベルが聞こえる。だれが鳴らしているのだろう。”
2015-08-19 01:09