後出しで許される学者たち

後出しで許される学者
経済学者、地震学者、選挙学者

これらは科学としては二流である
なぜなら一流の科学、つまり自然科学は実験で検証できるからである

これが普通の考えであるが、
それは、間違いであることを説明しよう

自然科学は実験して仮説の真偽を決めるのだと
少年少女が考え違いをしていると思う

言っておきたいが
自然科学もやはり後出しなのである

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ここでは傍論になるが、
たとえば宇宙がどうやってできたかとか
銀河系がとか、太陽がとか、月がとか、
そんなもの人間が知っても知らなくても
なにも変わらないではないか

宇宙がどうであるにしろ
隣人を愛すればよいのだし
人の身になって考えて感じて協力し合えばいいのである

宇宙のことを実験したりしている人間がいてもいなくても
現実の人間社会にはかかわりがないから
政治的人間にとっては、それらの人たちはとても扱いやすい種族なのである

そして彼らを利用してJAXAなどは予算を浪費する
あるいは戦争の準備をする

ろくなものではない

昔は核エネルギーの平和利用と言っていたものだ
いま、もう確実に、平和どころではない
現状で最悪の災禍を抱え込み
未来に防ぎようのない爆弾を抱え込んでいる

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それはいいとして、
自然科学の実験を考えてみよう

たとえば高校生が自然落下の実験をしてgを求めるとか、そんな話だ

その場合、物理の教師たちが毎年のように使う教材を持ち出し、毎年のように説明し、
毎年のように実験レポートをかかせる、まったくもって怠惰な精神である
そんなものが価値あるものと本当に思っている愚か者である
物理とは何の関係もない人たちだ

現実の自然界には摩擦という難物があり
測定にあたっては、長さをはかるのも簡単ではないし、時間を測定するにも困難がある
しかし大変に大雑把に、そこらのものさしで、そこらのストップウォッチで測っている
無反省である、鈍感である
そしてグラフを書くのである
そこで「測定誤差」「統計的誤差」などを語る

それを言うなら、最初から結果は分かっていたという他はない
測定結果を厳密に尊重しないのはなぜか
たいへんわがまま勝手に、測定には誤差がつきまとう、危険値pがどうしたとか言うのである
いいかげんにしなさい
都合が悪くなると測定誤差なのか
都合が悪くなると摩擦なのか

最初から結果が分かっているから、理想曲線からのズレを「誤差」と認識するのである
最初から結果が分かっているのは、
頭のなかで理想実験をしているからである
そして数学を使うからである
(しかも大半の人は自分で考えていない。
ただ「偉い人」から教えてもらっただけである。
宗教と何も変わりはない。)

現実などは理想実験と数学を追認する道具でしかないのである

自然科学理論におけるパラダイムチェンジの話などが有名である

天体測定をして天動説か地動説か決められるものではない
どちらの陣営ももっともらしい説を無限に繰り出すものである
都合が悪くなるといくらでも後出しの理論を語る

実験で決めようなんて嘘なのだ
本当は多数決だったり権威主義だったりするのである
後でいくらでも言い訳を言ってやるぞと決心しているのだ
実際、科学とは言い訳のことなのかと思ってしまうほどだ
原子力発電関係での凡ミスに関して、ほぼ無限の言い訳の山を見よ
そしてその無反省ぶりを見よ

理性とか悟性とか誠実さとか、なんというべきか、ともかくそんなものがかけらもない
原子力安全委員会が「わたしは安全なんて一言も言っていない」と語る、その無反省ぶりの巨大さ

自分を観察する自分を持てない場合、メタ認識ができないという
彼らの世界には鏡がない
彼らはテレビカメラに向かっていて姿と言葉がTVに放映されているのに
彼らはその姿と言葉を見ないし聞かないし想像しない
自分のことなのに想像しないといけないというのもおかしな表現であるが
メタ認知のばあいは、想像なのである
今の自分の姿は世界にはどのように見えているのだろうか
ひいては神様はどのように見ているのだろうかと想像することである

実験はいつも正しい結果を語るという擬制を信じている
いい人達なのである
彼らに罪はない、ただ馬鹿なだけである

それはかなり頭のいい人達をだます道具だと思っていいと思う
頭のいい人ほど、自分の理論にとらわれる
あるいは自分が苦労して学んだ理論を捨てられない
あるいは自分が承認されるまでかけたお金を考えるといまさらそれを否定出来ない

昨日までの私は馬鹿だったと簡単に言えるのは
本当に無価値な馬鹿だからである

自分が賢いと密かに思っていれば
昨日までの私は馬鹿だったと本気で思うには
かなりの心理的抵抗が生じるのであって
人間の心理は、それほど素直でもないし、純粋でもないのである

レッスン料がむやみに高額な
音楽の世界と同じだ

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古来、実験屋というものは、愚者の葬列である
どうでもいいことをやって給料をもらっている
自分ではうまくやったと思っているのだろうが
人生の無駄遣いである

捏造自慢の考古学者がいたが
それは自分は捏造していると嘘偽りなく自覚しているから
自分は地獄に行くと自覚している点でまだましなのである

実験科学者は、自分の行為が、嘘にそっくりくるまれていることを自覚しないのである
そっくりそのままのデータで別の解釈ができるとは考えもしない
それくらい馬鹿なのである

たとえていえば、宗教で言う原理主義者と同じである
何も考えていないのだ、頭のなかにはおがくずが詰まっている

心理学などという測定もできないようなものを扱うようなときは
多少の人は自分の愚かさを恥じる
しかし自分の人生の時間を費やした行為を否定することの難しさという
先に説明した原理に従い、
空理空論をいつまでも歌い続ける
無限にも密度があるように
バカにも段階があるのである

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というようなわけで、
高校の物理の実験などは
愚かな教師が無自覚に原理主義的な態度をとりつづけ、原理主義的生徒を再生産する
全くくだらない制度なのである

実験などしなくてもいいから、その実験を実行したとして、どんな嘘や欺瞞や原理主義が潜んでいるか
議論すべきである

そしてなぜ人間は真理が分かっているのか、
なぜ数学が真理なのか、
その不思議に驚嘆し考え、カントのように悩み、
コンラート・ローレンツやカール・ポパーのように進化論的真理に考えを及ぼすべきである
そして真実であることを認識するのは結局は人間の脳なので
真実の半分は自然の中にあるのであるが
あとの半分は人間の脳の中にあるのであり
それが幸運な事に一致するという進化論的真理を味わうべきである

若者は、
以上のことを、夕食後のけだるい時間にゆっくり考え、
昼の時間には人間世界の不幸を少しでも減らすように行動して生きたいものである
2016-05-14 10:59