"今年の夏はなんとなくいつもの夏と違う終わり方をした。甲子園の決勝が終わって、すぐに雨が降り、台風のせいなのかなと思っていたが、涼しくて助かると思っていた。台風がすぎればまたしばらく残暑が続くのだろうと思っていた。しかしそうではなかった。8月のうちに気温は一段下がり、夜にエアコンが要らなくなった。窓を開けているとタバコの臭いや夕食の料理の匂いが流れてきた。9月の初旬を過ぎて、あの夏の雨の日に、夏が終わって、秋が始まっていたのだとはっきり自覚した。秋になっていた。庭では鈴虫が盛んに鳴いている。このあっけない季節の移行の感じは人間が年をとる過程とよく似ているのではないかと思う。最近ではプロ野球選手など40歳を過ぎても現役で活躍する人もいるが、ある人の言によると、40歳くらいで急に痩せて、減量できてよかったと思っていたのだが、じつはあの時から衰えが始まっていた、そのあと老眼が始まり、足腰が弱くなり、白髪が増え、性的にも弱くなり、仕事の面でも辛抱ができなくなったとのことだ。すすーっと潮が急に引いてゆくように年を取り老年になる。その頃になると周囲は何もかもゆっくりで、自分の身体と精神の変化だけが急速である。何年の年月が経ったのかと外的要因で気付かせられる以外は、周囲は何も変わらず、自分だけ少しずつ年を取るのだという感覚があった。自分の姿などじっくり確認するわけではないから変化に気が付かないのだが、たまに同年代の友人にあったりすると、自分の老いを実感させられる。特に同年代の女性をみると、自分はそのような年代に属するのだと不思議なくらいの気分になる。しかしながらそうではない。周囲はもっと激しく変化していたのである。変化を見たくないと思って環境の変わらない部分にしがみついていたというべきだろうか。運転免許証の更新などが良い例である。そこに写っている写真のみすぼらしい感じ。自分ではないような違和感。こんなにも自分に無関心で生きていられるというのもある種の幸せではあるのかもしれない。いま懐かしく思うのは植物である。緑の葉と花の色。はさみで葉を整理していたりすると年寄りじみた自分の姿を客観的に考えて、私はここまで来てしまったのだと思う。そして、ここまで来てしまって思い返すと、いま私の手元には世間的に価値のあるものはなにもないが、それでいいのだと思う。貯めこむこともなく、死ぬときにはゼロになって、または少しマイナスになって、終わるのだろう。季節のめぐりで言えば、やがてまた輝かしい5月がやってくるはずであるが、人間の場合はそうは行かない。人間は回帰せず静かに退場するのである。こうして書いていても焦点を結ばずグダクダになるばかりであった。こんなふうに年を取るのだろう。"