採録
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北中淳子「うつの医療人類学」(3)第2章「気のやまい」 第3章「「神経衰弱」盛衰史」
第2章「気のやまい」 日本では西欧精神医学の渡来とともにうつ病が登場したといわれる。それ以前には、西欧と違い、憂鬱感は「自然なこと」として、むしろそこにある種の美意識が日本にあったからというような説明がされる。しかし北中氏は前近代の日本では本当に「鬱」は医療の対象にならなかったのだろうかという疑問を提示する。 伝統医学での「鬱症」は現代のうつ病とは異なるのか? それを考えるためには、前近代の「気」概念を検討する必要がある。伝統医療では気は天地宇宙さらには人体をみたすエネルギーを指し、それはこころの動きと密接に関係するとされた。それが鬱滞すると「気鬱」が生じるとされた。だが、それは次第に中国での本来の「気」の概念を離れて、江戸期には「こころ」の比喩的な表現に近づいた。本来体の中を流れるものであった「気」は次第に身体から離れ、「気のせい」といった表現が普通になっていった。 そこに西洋医学がはいってきた。当時の西欧は体液病理学が主流であったので、メランコリアの原因も黒胆液の鬱滞によるとされていた。すなわち心身一元論であったが、還元的思考への移行期でもあった。当時の日本人は神経の概念をもたず、脳も重要な臓器とは思っていなかった。明治にはいり、呉秀三が1901年にクレペリン流のドイツ神経学的精神医学を紹介したことが日本も近代的な身体観に移行していく。クレペリンの躁鬱病概念からうつ病も本態は躁鬱病であるとされ、旧来からの「鬱症」や「気鬱」の概念は忘れられていった。そのため「鬱病」は限定的な「脳病」であり、特殊で危険な病気と思われるようになった。したがって「鬱病」の診断は社会的な死をも意味しかねなかった。その一方、「不定愁訴」のようなものは西洋由来の精神医学の体系からはこぼれていった。 1990年代以降のうつ病の隆盛によりそれに大きな変化が生まれている。「心ー体ー社会」をつなげる医学言語としての「うつ病」が誕生してきたのではないかと著者はいう。その起源としては一世紀前の「神経衰弱」をみていく必要がある。 第3章「「神経衰弱」盛衰史」 1990年意向、うつ病をめぐる言説の変化の原因としては、二つが考えられる。1)SSRIなどの新世代の抗うつ剤の登場。2)この病いを「個人の弱さ」によるものではなく、「社会的ストレスの産物」すなわち「過労の病」とする言説の台頭。後者の背景には「うつ親和性性格」という言説がある。「まじめで、几帳面で、他者配慮的」な性格のひとが長引く不況のなか、まじめな人が、そのまじめさゆえに陥る「過労の病」がうつ病であるとする見方である。 精神医学の領域では鬱病は躁鬱病に吸収されていくなかで、従来の「気鬱」は「神経衰弱」という病名?となっていった可能性がある。 「神経衰弱」は1868年にアメリカの精神科医によって提唱された病名である。日本でも「複雑化する近代化社会がもたらす文明の病」「過労の病」として紹介された。これは現代のうつ病概念に近い。「中年の働き盛りの人」のなりやすいものとされ、当時の知識人や一般労働者の休職の理由として広く用いられた。中国や日本の伝統医学では「神経」という概念自体が存在していなかった。一般に日本でその概念がしられるようになるのは1880年代以降とされる。 しかし、神経衰弱については精神科医は懐疑的にみるものが多かった。それは過労によるものではなく、もともと脳に弱点を持つものがかかるのだという批判である。心因論・状況論への根本的な懐疑であり、真因は生物学的異常であり、心労は誘因にすぎないとした。しかし病理解剖学的な検索では脳に異常は発見できなかった。 一方、西欧ではフロイトの「神経症」概念の登場によって、神経衰弱は心理的な病になっていった。そういうなかで「神経衰弱」は「生存競争場面における劣敗者の示す反応」とい見方が日本でも強くなり、「神経衰弱は病気ではなくそうした人間なのである」というようなことがいわれるようになる。 そういう潮流のなかで、正統的な医学のなかでは「神経衰弱」患者は相手にされなくなっていったが、そういう「見捨てられた」ひとびとを相手にしたのが森田正馬による「森田療法」であった。それが対象としたのは「神経質」で、それは遺伝的器質的なものではなく「自己内省的で理知的」であるという一種の気質であるとされた。 しかし日本が戦争体制にはいっていくと神経衰弱患者は激減していく。 神経衰弱が人格の問題であるとされ実態をなくしていった時期である1932年に下田光造が、一見神経衰弱のように見えるが、「模範人」が陥る神経疾患を報告した。「何事にも徹底的で、いい加減ということができない、やり始めた仕事は徹夜してもやりぬく、正直で几帳面で、正確で、義務心責任感が強い」性格(執着気質)を持つものがなる。これは躁状態になることはなく、重大な心身の過労により発症する。この下田説は日本が戦争に突入していくなかで忘れられてしまったが、戦後ドイツの人間学的精神医学の思想が紹介されたことで再発見された。その代表がテレンバッハの「メランコリー親和型性格」である。社会精神医学的見方の台頭である。 こういう話をみてくると精神医学というのはなんともいい加減なものだなあと思う。もちろん身体医学だって誉められたものではないのかもしれないが、これに比べれば少しはましなようにも思う。だからこそ多くの医者が「器質的疾患」という概念にしがみつく。「器質的疾患」というのは身体側に目に見える何らかの変化が観察できる病気のことを指す。精神医学領域の病気では脳に器質的な変化はまだ発見されていないと理解している。うつ病のセレトニン不足説は仮に病理形態学的な変化を脳にみつけることができないとしても、セレトニンを増加させる薬を投与することによってうつ病が改善するとしたら、うつ病は脳の神経伝達物質の不足によっておきるとする仮説を支持することになり、広い意味での「器質的疾患」としてうつ病をあつかえることになる。そうなると医者は安心できることになる。 結核症は結核菌がおこす。と同時に結核は貧困の産物でもある。抗結核剤の発見以前から経済状態の改善により、すでに結核は減少しはじめている。精神疾患の社会精神医学的見方の台頭というのは、結核とのアナロジーでいえば、結核の貧困起因説である。これは公衆衛生の分野では従来からある争点で、コッホと対立したペッテンコーフェルのコレラの原因はコレラ菌だけではないとする説までさかのぼれるはずである。事実下水道の整備でコレラの発症は激減した。過酷な労働環境を改善することはうつを減らす可能性がある。問題は、目の前にいる結核の患者さんの病因が貧困であるといわれると多くの医者は非常に居心地が悪いということである。医者はやはり結核の原因は結核菌だと思っており、その治療は抗結核薬だと信じていて、貧困の改善(栄養状態の改善)だとは思っていないのである。しかし抗結核薬が発見される以前には結核の治療は清浄な空気と滋養強壮であったわけある。魔法の弾丸(抗生物質)の発見以来、病気は治せるものと思われるようになったことがわれわれの疾病観を変えた。その中で、社会精神医学的見方が色濃くある精神医学の領域は、器質的疾患を信じる医者からみると百年くらい遅れているように見えるのではないかと思う。そして「脳派」の精神科医は、もしも簡単にうつ病が治せる薬がでてきたら、社会精神医学などというのはどこかに飛んでいってしまうぞと思っているのではないだろうか? 本書の記載をみても、わたくしが医者になった1970年代はじめは精神疾患への見方が今とは随分と異なっていたことがわかる。 「メランコリー好発型性格」というのをはじめて知ったのは笠原嘉氏の「精神科医のノート」によってであったと思う。1976年刊行であるが、わたくしが持っているのは1979年の6刷だから、医者になって5~6年してである。何で読んだのかは覚えていないが、そのころ心身症のようなものに興味をもっていたので、そのためだろうと思う。この本を読んで、精神科というのも面白い分野かもしれないと思ったのを記憶している。学生時代に習った精神医学は今から思うと60年代の精神医学だったわけで、さっぱり関心が持てなかった。 今「精神科医のノート」の「メランコリー好発型性格」の章を読んで、テレンバッハがこの性格のものにうつが多いという論を発表したのが1961年であることを知った。この本が書かれるわずか15年くらい前であるので、不真面目な学生で授業には録にでていなかったが、授業では一つの定説としてはまだ教えてはいなかった可能性が高いように思う。どうも下田の「執着型気質」はテレンバッハの説により再発見されたらしい。 笠原氏によれば、この「メランコリー親和型」性格の説が日本に入っていたのは昭和30年代であり、その時代というのは、精神科の外来に患者が急増し、その多くがうつ病であった時代なのだという。それも軽症の単相性の内因性のうつ病であった、と。ノイローゼという言葉が憂うつ症におきかわっていったのだという。 復興期や成長期にある社会や伝統志向の強い体制社会ではメランコリー親和型の性格が多くつくられ、かつ社会の中で大きな役割を果たすが、価値が多様化し、権威の所在が不明確な時代になると、この性格からうつが発症しやすくなるのかもしれないと笠原氏は述べている。この性格は過渡期のものであり、良心の源泉としての父なる神が死滅していく中間段階に特有なものであると中井久夫氏が言っているのだという。日本とドイツにそれが多くみられるのはそのためであろう、と。 「精神科医のノート」には「スチューデント・アパシー」の章があるが、ここで描かれているスチューデント・アパシーの像は最近問題になっているいわゆる「新型うつ」の像ときわめて近いものがある。笠原氏は「メランコリー親和型のうつ」はまもなく終わり、その後にくるのはアパシーのようなものであるのではないかと予想していた。現在、従来型の「メランコリー親和型」のうつが減り、代わりにいわゆる「新型うつ」が増えてきているのは笠原氏の予言が的中しているのかもしれない。 笠原氏は「メランコリー親和型のうつ」も「アパシー」もともにその根底にあるのは「強迫性心性」なのであるとしていて、それらへの本当の対策は現代の「強迫性心性」を生産する構造への対処にあるのではないかとしている。 笠原氏によれば、強迫性心性とは「人生に不可避的につきまとう不確実性、予測不可能性、曖昧性を極小にすべく、人間がつくりあげる心理的防御機制なのだという。そのために単純で明確な生活信条と様式を設定して、それにより整然たる世界を構築できると考えて空想的万能感を抱き、不確実性の高い生活領域へは参加せず、生活圏を狭隘化していく。単純な二分法で世界をみて、曖昧な中間領域の存在を許さないのだ、と。 こういう話は養老孟司氏の「都市化」「脳化」「こうすればああなる信仰」といった話にも繋がってくるように思う。あるいは「科学的思考」「理科的思考」の問題点ということかもしれない。そのように考えれば、うつ病というものを明確な生物学的物質的背景から定義できないと不安という心情もまた強迫的心性なのかもしれない。 人生一寸先は闇と思うような心情とそれは真っ向から対立するものなのであろう。医者がこういうことを言ってはいけないのだが、健康診断の些細な異常に一喜一憂しているひとをみると、強迫的だなあ、健康に悪いぞと思ってしまう。 笠原氏の本には「二重の見当識」という章があって、精神医学というのは対象へのアプローチの仕方が複眼的ということを言っている。生物学系の学問でありながら、自然科学的方法論のみならず、人文科学系の方法論にも強い関心を持たざるをえないのだ、と。また時には、病人の側の論理や利害と一般社会通念の側の論理と利害との中間に立たなくてはいけないこともあると。分析的理性的部分認識よりも総合的直感的全体認識が求められることも多い、と。そのように両棲類的であるが、これは決して楽ではなく、明快な自然科学的論理だけで通用する分野にも憧れはある、と。 何だか笠原氏の本のことばかり論じているが、北中氏には総合的直感的全体認識への強い共感があることを感じる。文化人類学はもともと西欧を相対化することを目指した学問であるはずで、そうであるなら科学という西欧の学からみると見えないものを発見していくのがその学の目指す方向だと思う。その立場からみると精神医学はきわめて興味深い分野であるはずで、生物学的に筋を通そうとするとすぐに無理がでてくる分野であるので、西欧が得意とする分析的理性的部分認識では見えないものがたくさんあることを示す場としては格好である。 心と身体、個人と社会、正気と狂気を等分に見やる中点的位置を保つことが精神医学では求められており、そこに精神医学の魅力と矜持があると笠原氏はいう。笠原氏は精神医学の分野でも決して主流にいた人ではないかもしれないが、部外者からみると生物学的精神医学というのは魅力的には見えない。笠原氏のような立場が魅力的に見える。しかしそれは書斎からみればということであって、現場の修羅場においてはなかなかそうも言っていられないところがあるのだろうと思う。北中氏は現場にも入っているひとなので、総合的直感的全体認識への共感と現場での現実とで揺れ動いているところもあるようにも感じる。それが精神分析的なものにかなり距離をおいていたり、リワークなどへ共感したりしている部分にあらわれているように感じる。 ということで次は第4章「「精神療法」と歴史的感受性」をみていく。
北中淳子「うつの医療人類学」(4)第4章「「精神療法」と歴史的感受性」
20世紀北米では精神分析がさかんで、うつ病の治療も精神分析によるものが主流であった。身体は精神によってコントロールされるべきと考えられてきた。しかし1993年長年抑鬱になやみ精神療法で改善していなかった人々がプロザック(SSRI)をのむことで一気に元気になり、性格も明るくなったという報告が発表されてから風向きが変わった。「心理学的人間」から「神経化学的自己」への転換がおきた。 精神療法家からは、うつの薬物療法はうつの原因となっている生き方の問題を見逃してしまうことになるという批判がでた。 著者の北中氏が北米での精神医学のフィールド調査をおえて2000年に日本に帰ったとき、北米でのバイオロジー派対精神療法という対立が必ずしも日本ではみられないことに驚いたという。日本では日々の診療においては北米ではバイオロジカルと呼ばれるようなアプローチを多くの臨床家がとり、精神分析に造詣が深い医師であっても、うつ病患者への精神療法についてはきわめて慎重で、「うつ病患者には、心理的洞察を求める精神分析は「禁忌」である」という医師さえいたのだという。 その原因としては、1)日本では一般に精神療法が不人気であること、2)日本の診療報酬体系では時間のかかる精神分析などを臨床の場でおこなうことがきわめて困難であること、などがあげられているが、それだけとは思えないと北中氏はいう。 日本ではうつ病はバイオロジカルな病気であると考えられており、薬物療法が第一選択であり、うつ病は本来まじめで勤勉な人々がなるのだから、そのもとの状態に戻すことが治療の目的であり、患者の語りについては耳をかたむけることはしても、それに深く切り込むことはせず、身体治療を優先すべきとされてのだ、と。 うつ病を個人の文脈におさめ、「まじめ」で「周りに気をつかう」ひとがなる病気という社会的状況を強調することにより、それ以上の“原因”検索を避ける方向が治療のいきかたとなっていた。 これは病者を自責感と道徳的責任から解放させるという近代医学の得意とする方向を可能とする。日本の精神科医は北米の医師はあまりおこなわないようなソーシャル・ワーカー的な介入、職場や家族面での調整を積極的におこなう。心理的側面は難治の場合、再発をくりかえす場合にはじめて考慮されるようになる。薬物での治療に抵抗があり、セラピーで治したいという患者もいるが、精神科医は内因性のうつ病が、誤った精神療法的介入によって「神経症化」していく危険性に敏感である。 それまで電撃療法や持続睡眠療法が用いられていたうつ病治療は、1960年代以降、一気に抗うつ剤とトランキライザーの併用へと変わっていく。しかし、再発や遷延化もまた問題となってきた。抗うつ剤の開発によっておきた当初の楽観主義はゆらぎ、反精神医学の動きや、ドイツなどを中心とする実存的・現象学的精神病理学にも触発され、うつ病論は大きく変化し、内因対心因という二項対立から状況因という概念が中心となってきた。 産業の合理化と機械化によってもたらされた危機と、それに対するこころの反乱がさかんに論じられ、1960年代には、うつ病論は一種の疎外論となって社会批判の意味ももちはじめた。「かつて勤勉・努力・節約などが美徳とされた時代には、きちょうめんにまじめに仕事にうちこんできたが、消費・レジャーが美徳とされる自体になって、みずからの生き方を見失い、慢性化したうつ病に落ち込んでいく中年のサラリーマン」「昔なら孫の養育に生きがいを見いだせたはずなのに、核家族化の進行で、子どもたちの成人後は生きる目的が得られず、うつ病になった老夫人」・・・。うつ病が「自分がいかに生きるべきかの迷い、あるいは生きがいを見いだせなくなった状況」からの病として語られるようになった。その結晶が1975年に発表された笠原・木村分類であった。こういう伝統があったことにより、DMS台頭後も、日本のうつ病論がある種の独自性と臨床的な豊かさを維持できた理由であろうと北中氏はしている。 ある精神科医は、自分が精神療法的かかわりを始めた当初はかえって治療が難航する例が多かったことを述べ、患者の内面に関心を持ちすぎたことがその原因であったと述べ、あまり患者の葛藤を治療の場にださず、それに蓋をすることが治療の要になるといっている。 それで例えば、笠原の「小精神療法」などが提唱されてくる。患者がいかにも精神療法の対象になりそうなことを語っても、あえてそこに介入しないことこそが「逆説的だが、精神療法的である」と知ることがこの時代のあらたな臨床哲学となっていった。「精神分析は、こころの外科手術にも似て、一介の臨床医が安易に試みるべきではないもの」とされた。 あえて「精神」の領域には踏み込まず、不眠といった「身体」の症状からアプローチするやり方は、伝統的心身一元論とも共鳴する日本のローカル・サイエンスにも合致していて、北米風の「うつは感情の病」とする見方とは異なる、「心身エネルギーの低下」に着目する「生理学的」見方の伝統に沿ったものだったのかもしれない。 日本のうつ病臨床を独自なものとしているメランコリー親和型の言説は、個人の性格論と社会的生活論の二つの側面を持つので、個人が過剰な心理的洞察の深みにはまることを防ぐ役割を果たしてきた。そこでは患者が自ら変わるという側面は重視されない。最近の認知行動療法などの隆盛はそれへの批判としてでてきた可能性がある。 ウッディ・アレンの映画などをみているとアメリカのインテリはみんな精神分析を受けているような気がする。一方、日本ではまわりをみても精神分析を受けているひとなどいない。そうではあるが、精神分析といった大げさなものではなく、カウンセリングのようなものへの期待は大きいのではないかと思う。患者さんを精神科に紹介すると、行ってもろくに話もきいてくれなかったという不満を表明するかたが多い。精神科というところは、患者さんの話をきいて、そこからその人の生き方の問題点を指摘してくれて、今後どのような生き方をするかをアドバイスしてくれるところと思っているかたが多い。したがって、ちょっと話をきいただけで、じゅあお薬で様子をみましょうなどといわれると非常な不満を感じるらしい。 日本には精神分析医は多くないがカウンセラーの数は多い。それが日本の精神科医療に果たしている役割はどのようなものなのだろう? 精神科医はカウンセラーにあまり好意的でないひとが多いように感じる。精神科医は薬物療法ができるが、医者ではないカウンセラーはそれができないので、もっている武器は心理療法だけである。「患者がいかにも精神療法の対象になりそうなことを語っても、あえてそこに介入しないことこそが「逆説的だが、精神療法的である」と知ることがこの時代のあらたな臨床哲学となっていった」のが日本の精神医療の動向であったとすると、その立場は微妙である。 精神科医は自分たちがあえて近づかず、蓋をしている患者さんの「こころ」の問題に、カウンセラーがそれをこじあけて近づき、結果として問題をこじらせてしまうことが多いと感じているように思う。しかも善意で熱心なカウンセラーほどそうなりやすいとも。 河合隼雄さんの本などを読んでいると、面談の場でしていることはクライアントの話をきいているだけのように感じる。「ほう」とか「難儀ですなあ」とかだけいっている。おそらく介入しなくてはならないクリティカルな場面というのは滅多になくて、それ以外の場では何も指示などしない。これは名人芸であって、誰にでもできることではない。 名人芸を必要とする点で心理療法というのはまだ非常に多くの問題点を抱えているのだろうと思う。神田橋條治氏は「精神科の臨床をやるなら、「ほう」という相づちにも8種類(だったように記憶している)の別々のニュアンスを込めた音調の使い分けができなければいけない」といっているのだそうである。そのくらいのこともできずに、「こころの外科手術」をすることなどは危険なだけで、「生療法は怪我の元」なのである。神田橋氏は精神療法の達人なのだそうである。 などと偉そうに書いているが、ひとのことはいえない。若いころ何度も大火傷をしている。大学を出て市中の病院で働きはじめたころ、大学では肝臓の勉強をしていたが、今と異なり、そのころの肝臓病の臨床は診断はできても治療法があまりない時代であったので、外の病院にでたら治せる病気をみたいななどと考えた。治せる病気というのは、病気ではないが病気であると患者さんが思っている病気なのである。若気のいたりであった。どういうわけか、そとの病院にでたとたんに自分の生涯でも最重量級の患者さんに立て続けに遭遇した。今から見ると広義のヒステリーに属するかと思われる症例ばかりで、みな女性である。笠原嘉氏の本にもあったが最近は本当にヒステリーが減った。この数年、まったく見ていない。 一例が、種々症状があるが器質的な変化がまったくない女性で、自然科学畑の女性研究者で女性であるがゆえにいかに学者社会で差別を受けてきたか、それに自分がいかに傷ついてきたかというようなことを縷々訴える。器質性の原因が一つも見つからないので、こういう話をきくとああこれだ!と思ってしまうわけである。別に精神療法をしたわけではないが、そういうことが病気の真の原因ではないかと本人が気がつけば症状を消失させることもできるのはないかとなどと甘いことを考えてしまった。話をきいていくと聞けばきくほど面白い、いかにも精神分析の対象となりそうな父親との関係の問題とかがどんどんでてくる。後から考えると作話がはいっていたかもしれないと思うし、本人にしても本当の話と空想の話の境界がなくなっていたのかもしれないが、とにかく一生懸命に患者さんの話をきくほど患者さんはどんどんと悪くなっていった。今から考えると患者さんの症状は周囲の関心をひくためにでてきたのであるから、それに関心をもってくれるひとがでてきたら待ってましたであって、症状がよくなる可能性ははじめからなかったわけである。この症例で、患者さんに関心をもつこと自体が患者さんを悪くする可能性があることを身をもって知った。どんどん悪くなっていったので、お願いして精神科の専門家に診てもらうようにしたが、その先生ははじめから治せるとはまったく思っていないようであったのにびっくりした。その後、症状はずっと続いていたようで、ときどきわたくしの外来にもみえたが、とにかく治らないことが苦になっていないようなのである。むしろ医者が診断に苦慮するような特別な症状があることが、自分が特別な人間であるというアイデンティティの保証になっているような印象さえあり、この症状が消えたら自分は普通のただのつまらない人間になってしまうと思っているのではないかと思えるくらいだった。手足が動かなくなったり、あるときは体が自然に動いてしまってといって、外来の間中、まったく座らず(座れず?)診察室のなかで歩き回りながら話つづけたりした。 また一例は、膠原病を背景にした気管支喘息の患者さんで、膠原病による肺病変のため、喘息発作がすぐに重度の呼吸困難を引きおこしてしまう症例で、その発作が自分が何か気に入らないことがあるとおきるのだった。当然、病棟のスタッフは本人の精神状態を平静に保つように気を使うわけだが、そのような状況をつくりあげることによって、患者さんが完全に病棟を支配してしまうようなことがおきることを知った。“操作”というような概念は後から知ったのだが、患者さんの病歴(履歴)をきくと若いころからショービジネスの裏道で大変な苦労をしてきたひとで、わたくしのような世間知らずのお坊ちゃんにはただただびっくりするような話ばかりだった。そして本人はそういう話を親身にきいてくれるひとがいることがとてもうれしいようだった。その話を遮ってほかにいこうとすると発作がおきる。本人の精神の平静のためにもわたくしはその話をきかざるをえずというようなことになり、抜き差しならなくなっていった。わたくしには手におえず、友人の精神科医に病棟の調整などを依頼した記憶がある。患者さんに一生懸命にかかわることが決して患者さんの予後をよくするわけではないことをまた身をもって学んだ。 もう一例は、鎮痛剤中毒の若い女性で、某大学の某医局の女性秘書のひとで、驚いたことにその秘書さんはその医局の医者の相当数とできているらしいのである(本人のいうことが誇張である可能性も高いのだが)。ある先生が当直のときに急に激烈な腹痛がおきる。するとその先生が鎮痛剤を打ってくれる、というようなことをきっかけに次々と関係ができていくというようなことのようだったが、先生方が患者さんの味方になって安易に鎮痛剤を打つことを続けたため中毒になってしまった。その症例のときにはわたくくしも少しは経験を積んでいたので、患者さんとの距離を意識的にとるように心がけた。 とにかくこれらの症例を通じて学んだのは患者さんとの距離のとりかたがいかに難しいかということで、決して近づけば親身になればいいというわけではないということである。これは精神分析の「転移」とか「逆転移」とかにもかかわっている問題なのだろうと思う。 そういう苦い経験があるので、本書にかかれている、精神科医が安易に精神療法に走らないという姿勢は非常によく理解できた。 日本であるいは世界でヒステリーが激減してきているのは、女性の地位の向上のためなのだろうか? 身体が声をあげなくても女性も自由にものをいうことができる時代になってきたのであろうか? わたくしがはじめてヒステリーの患者さんをみたのはまだ学生の頃、夏休みに地方の病院に見学にいっていて、そこで大騒ぎで「痛い、苦しい!」と泣き喚いている女の子をみたときだった。不思議なことにそこのお医者さんたちは知らん顔して誰も相手にしないのである。きいたら、東京から夏休みに避暑にきていて、そこで好きな男の子ができて帰りたくないから“病気”になっているということだった。今ならもっと違う表現法がいくらでもあるのだろうと思う。アドレスを交換してメールのやりとりでもすればいいので、泣き叫ぶことはないわけである。わたくしが大学にいたころは「君の名は」の時代からまだそう時間がたっていなかったということなのかもしれない。医者になって大分してから、ハイヤーの中で電話をしているひとをみてびっくりしたことがある。 計見一雄さんの本で読んだのだったと思うが、日本人は病気になると「なぜ自分がそうなったのか」ということを非常に気にするらしい。病気は一種の災厄であるから、ほかならぬ自分がそうなったのは何か自分が悪いことをしたからなのかという方向に頭がいくらしい。あなたが何々さんに意地悪したからですよといったことがないと納得できないらしいのである。そうであればメランコリー親和型という説明は納得性ということについてはなかなか強力なものなのではないかと思う。 笠原嘉氏の「精神科医のノート」にも書いてあったが、精神科医自身も自分もまたメランコリー親和型と思っているひとが多いらしく、それが日本でこの病前性格論が大いに受け入れられた一つの原因ではないかとしていた。別のところで読んだことだが、精神科医はお互いに他の精神科医をいろいろと批評しあうものらしく、どう考えても他からはメランコリー親和型とは見えないひとが自分ではそう思っているケースが多々あるのだそうである。 最近ノーベル賞を受賞した中村さんというかたは日本では評判が今一つではないかという気がするのだが、ああいう「俺が俺が」の自己主張のひとばかりであれば、メランコリー親和型などという話はまずでてこないはずである。学会などにでるとアメリカからの演者が「自分はこの分野での世界的権威である」などと自己紹介をすることがあって驚く。 最近、メランコリー親和型のうつが減少してきているといわれるが、日本の社会の変化を反映しているのであろう。社会が変わると病気が変わるのであれば、DMS分類などというのは、いかにもアメリカ的な大味なものという気がする。 さて、日本は男社会である。医者の世界もまた男社会である。精神医学の世界もまた男社会である。とすれば「メランコリー親和型」といった言説が日本で正統的なうつ病因論となったことは、その反映なのではないかという見方が当然でてくることになる。 高校生の時、確か島崎敏樹さんという精神科医の確か「こころで見る世界」という本を読んだ記憶がある。なんで読んだのかというと、そこから多くの国語の入試問題が出題されていたからなのだが、そこにこんなことが書いてあった。確かイギリスの王女様が政治に関心をもっていろいろと口を出してくる。困った周囲が一計を案じて美男を王女に近づける。王女は恋におち、やがて結婚して、子供もできる。それでしみじみというには、子供を産んで育てるというこんな無常の楽しみがあることも知らないで、政治などに関心を持っていた自分はなんと愚かであったのだろうか。今こんなところを出題したらフェミニズム陣営から猛烈な抗議が来ることは必定である。昔はよかったわけである。 それで、次はジェンダーの問題を論じた第5章と6章を見ていく。
北中淳子「うつの医療人類学」(5)第5、6章「鬱、ジェンダー、回復1、2」
第5章と第6章はジェンダーの問題をあつかっていて、第5章が男性、第6章が女性を論じている。 うつ病は欧米では長い間「女性の病気」とされてきた。典型的には子どもが巣立った後に感じる空虚感である。ファミニストはうつ病は女性がおかれた社会的状況の象徴であると主張した。 その点でうつが男性の病気とされる日本は特異である。それは過労の産物であり、仕事からおきる病とされた。日本の精神医学は男性の「過労の病」としてのうつ病にやさしい。そこでは、一生懸命に働いているひとが報われないのはおかしいという意識が働いている。仕事中心の人間像は医師にも共有されている。そして仕事の側面が強調されるため、他の因子、たとえば家庭の問題などは看過されやすい。 執着気質のうつの患者同士がお互いの体験を語る自助グループができていて、そこでの語りのなかから、自己の「執着」を離れて「諦念による自由」をえるようになるひともいる。 日本でうつの女性が少ない点については、社会的地位が低いために医療にはかかりにくいためとか、社会的地位が低いために社会の重圧を受けにくいためとか、さまざまな説明がなされてきている。 精神障害のなかでも生物学的背景のはっきりしたものほど性差が少ないことが知られている。ということは、うつにはやはり社会的要因が大きく関与しているということである。 著者が接したさまざまな患者についてみても、男性の場合には定式化したストーリーが作りやすいが、女性の場合ではそうではないという。 女性の場合はうつ病と認識されるまでの壁がある。女性の語りが単線的ではなく複合的で男性の場合よりわかりにくいということもある。そもそも男性医師は女性が語る物語に共感を感じにくい。また、そのために女性の患者の場合、医師との安定した関係を築きにくい。男性は医師とのあいだのパターナリズム的関係に安住する傾向があるが、女性の場合、依存への欲求と自己コントロールへの希求のあいだで揺れ動く。男性医師と女性患者の場合には「転移」「逆転移」の問題もでてくる。 ここでは論じられていないが、うつの大きな原因として、マタニティー・ブルーといわれる出産後のうつがある。これが引っ越しうつとか昇進うつとかとも関連する大きな目的を達した後の空虚感などとどのように相関するのかはわからないが、ホルモンバランスの大きな変動が関係しているとの見方が多いのではないかと思う。また更年期障害といわれる症状の一部にだるさとかやる気のなさといったうつと関係ないともいえない症状があり、しばしばホルモン補充療法で改善する。女性は毎月ホルモン変動を繰り返しているわけで、それが身体にあたえる影響は非常に大きいものがあると思うが、それを男性が実感することは不可能である。 それとの関連でいえば、医者をはじめたばかりの20歳代の研修医が85歳の患者の気持ちをわかれといわれても無理だし、健康な医者が進行した癌で余命が見えているひとの気持ちをわかることもまたできないと思う。尊厳死協会に入っていて、リビング・ウイルの書類の「無駄な延命処置を一切しない」にサインしていたひとが、いざ大きな病気で入院してくると「できることはなんでもしてください」と前言を撤回することも2回ほど経験した。自分のことさえわからないのに、ましてや他人のことなどわかるはずないではないか、しかも異性のことなど。精神医学というのはとんでもないことに挑んでいることになる。 男と女の間には暗くて深い川があるのかどうかは知らないが、最近では男女の差というのは「社会的に構築」されたものではなく、狩猟採集時代に生き残りのため(子孫をたくさん残すため)に最適な戦略であった役割分担がそれを規定したとする進化心理学による説明が主流のようである。それによると、なぜ女性がハーレクイン・ロマンスを好むのかといったことまでもちゃんと説明できるのだそうである。白雪姫の物語の変奏で「どこかから王子様が」であるし、あるいは竹取物語で、美女のまわりに男が集まって贈り物攻勢である。最近の世界的ベストセラーという「フィフティ・シェイズ・オブ何とか」というのもその路線らしい。いずれにしても男はハーレクイン・ロマンスなどは読めないのである。 狩猟採集時代に男は狩りに出て、女は木の実などを拾いながら子育てをした。太古から育児や介護は女の仕事だった。医療の起源はおそらく子供をあやす母親である。現在、看護というのが主として女性の仕事となっているのはその名残で、したがってシャドウ・ワークの一つであった介護が介護保険により有償の仕事とされたのはフェミニズムの方面からは画期的なことと評価されている。育児にしても、料理にしても、すでに有償の部分はあった。だが、出産は男にはできず、自分のお腹の中に子どもがいるという体験も男にはできず、どんな経験か想像もできない。 著者は女性であるが、本書ではジェンダーについての主張は穏やかである。男性は社会人であるうちは仕事によってほとんどの生活が塗り込められているが、女性の場合は仕事だけでなく、家族関係をふくめた重層的な要因がうつと関係していることを述べるだけである。 最近、専業主婦のことがいろいろ議論されているが、農業が主たる産業であった時代には、妻は即労働力でもあったはずで、当初、専業主婦になることは肉体労働からの解放を意味した。しかし、はじめはそれでも家事に膨大な時間をさかねばいけなかった。昭和20年代には主婦の家事にとられる時間は十数時間であったといわれるが、現在では2~3時間らしい。高度成長期から失われた10年にかけて、さらにはリーマン・ショックなどを経て現在に至る労働環境のさまざまな変化が男性にあたえた影響については本書でも論じられているが、女性については比較的現在直面している問題に話が限局されていて、女性も経験してきたであろう歴史的変化による立場の変化がメンタルに与えた影響については、あまり議論がされていないように感じた。著者も働く女性として、仕事をしている女性のほうに共感が働くということがあるのかもしれない。わたくしの乏しい経験でもいわゆる総合職第一期生から多くのメンタル不調者が出たことをみている。過度の使命感により燃え尽きた人を何人もみた。これから女性登用が世の中の流れになっていくと、地位が上昇した女性が、それが本当に自分の力が認められてそうなったのか、女性を登用しないといけないという社会の圧力からたまたまそうなったのかといったことで悩むことが増えるのではないかと思う。 わたくしの身近にある話では、女医さんは男性医師の何倍も苦労をしている。子育てしながら仕事を続けている女医さんは収入のほとんどを保育の人やシッターさんの確保というような部分つぎ込んでいるようである。しかも女医さんに気の毒なのは、男性患者からも女性患者からも男性の医師ほどの信頼を得られない場合が多いことである(産婦人科を除く)。これは男性看護師の微妙な立場ということをふくめ(看護の仕事は男性患者からも女性患者からも基本的に女性の仕事と思われている)、ジェンダーの基本にかかわる問題だろうと思う。医療の場にはパターナリズムがはたらきやすく、父性は男性の機能だからである。 これからの日本における正社員と非正規社員の格差のあいだの問題、寿退社という言葉が死語になっていくであろう時代に女性が当面する可能性の高い目には見えないガラスの天井といったものがメンタル疾患の動向にあたえる影響というのはきわめて大きいだろうと思う。現在問題になっているいわゆる「新型うつ」の多くは男性である(女性もないわけではない)が、それもこれから変わっていくかもしれない。。 次章の「「労働科学」の新たな展開」は、直接、労働とうつ病の関係について論じている。
2020-03-18 00:04