由来
一冊の本
当時、カトリックの文献を読んでいく中で、「グノーシスとはなにか」マドレー・スコペロ著、入江良平+中野千恵美訳(1997年刊せりか書房 原著 Les gnostiques Madeleine Scopello,1991,Les Editions de Cerf,Pari)に出会った。著者はナグ・ハマディ文書の研究者である。明快な文章で説得力に富む。
そもそもの神学的疑問はこうである。「カトリックの神は完全に善なる者であるのに、神がつくったこの世界はどうして悪と不幸が満ちあふれているのか、これが神の作ろうとした世界なのか、これが神のつくろうとした人間なのか。」
カトリックに敵対するさまざまな異端があり、グノーシスもその一派である。この世界が悪と不幸に満ちているのは、この世界は悪の神が創造したものだからであるというのである。真の神は創造とは無縁であり、無限の光の中にひとり存在している。ここであまりに単純化しすぎるのは危険であるけれども、そのようなことが論の始まりである。 この本の中で、面白い一節があり、印象に残った。引用すると以下のようである。
エピファニオス(315?~403)は『パナリオン』で八十の異端に言及している。(中略)グノーシス的異端は蛇のようだ、とエピファニオスは言う。彼の著作の題名の由来はここにある。パナリオンとは、ギリシャ語で、医者の持ち歩く「薬箱」を意味する。その中の薬は、蛇の噛み傷すなわちグノーシス主義者の教えに対する解毒剤なのである。
わたしは患者さんに悩みや病気の説明をする際にパンフレットを用意しようと思った。患者さんは診察室では緊張していて、全部言えないし、お医者さんの言うことも全部は理解できないこともある。患者さんは家に帰ってからパンフレットを読み返して理解を深めるだろう。題名は「パナリオン」を拝借しようと思った。しかし「パナリオンとは……」とまた説明が必要だった。
わたしのパナリオン
当時「こころの辞典」丸善出版の編集が終わったばかりの頃だった。そこで名前をそろえて、「こころの薬箱」とすることにした。悩みや病気の説明は「こころの薬箱」で、その中の言葉の説明は「こころの辞典」でという分担だった。
自分の書いたものが絶対に正しいとは思うものではないが、少なくとも、いま世間にあふれている不確かでときには有害な情報に対して、「薬箱」の役目を果たしてくれたらいいと思う。
時がたち、現実は厳しい。この世界は悪の神が創造したのかと一瞬思ってしまう、そんな毎日である。しかしわたしが出会うさまざまな人たちはわたしを慰めてくれる。思い出の中でも、現在でも。わたしにとっての「パナリオン」は、わたしが出会った人々なのだと思う。