#MeTooに異を唱えた「ドヌーヴ書簡」
2017年以来世界的な広がりをみせている#MeToo運動に対して、カトリーヌ・ドヌーヴらフランス人著名女性100人が公開書簡で異議を唱えた。
この「ドヌーヴ書簡」が物議を醸し、ドヌーヴが性的暴行の被害者に謝罪する事態にまでなった。
だが、そもそもなぜ彼女たちはこの公開書簡をしたためたのだろうか。その真意を、フランス人女性の政治評論家がフランス流のフェミニズムや議論の作法から読み解く──。
#MeToo運動は清教徒的だ!
2018年1月、フランスの女性たちが世界中のメディアの注目を集めた。
彼女たちがぜんぜん太らないから? 彼女たちの子供たちが絶対に食べ物を投げないから?(米国でベストセラーのフランス女性関連本にあるように)
ノン!
彼女たちのうち100人が署名した公開書簡が「ル・モンド」紙に掲載されたが、その内容が、#MeToo運動に対するまた別の見方を提示し、彼女たちがフェミニストたちの「暴力的な検閲」とみなすものに注目を喚起するものだったからだ。
フランスの映画スター、カトリーヌ・ドヌーヴも、この書簡に署名したことでフェミニスト界を炎上させた。
彼女たちのもの言いは、フランス流だった──率直、いや、もうほとんど「ぶっきらぼう」だった。編集も驚くほどお粗末で、書き手たちに似つかわしくない、舌足らずな文章も見られる。
それはさておいても、要するに、彼女たちはセクハラを告発する#MeToo運動を「清教徒(ピューリタン)的……清めの波」と考えているのだ。
書簡にはこうある。
「レイプは犯罪だが、誰かを口説くことは、たとえそれがしつこかったり不器用であったりしても、犯罪ではない。そして男性が紳士的にふるまうのは、男尊女卑的な攻撃ではない」
彼女たちはさらにこう主張する。
「女性の声をあげる運動としてはじまったものは今日、その逆のものになってしまった。『正しい』声をあげるよう威圧し、歩調を合わせない者はやじり倒し、新たな現実に従わない女性は共犯者や裏切り者とみなす」
言い換えれば、フランスの多くの女性を代弁するこの100人の女性たちは、この新たなピューリタニズムがスターリニズムとその秘密警察のようであり、真の民主主義ではないと言っているのだ。
「女性はかわいそうな存在、守られるべき子供のような存在というこのビクトリア朝的考え」──彼女たちが容認を拒んでいるのはそうした女性像だ。それは宗教的原理主義者や反動主義者がよしとする女性像でもある。
書簡はこう主張する。
「女性として私たちは、権力の乱用への非難を越えて、男性やセクシュアリティに嫌悪感を抱くフェミニズムには同調できない」
書簡公開後、炎上
性と男性に対するこの姿勢こそが、「フランスのフェミニズム」と「英米のフェミニズム」を分けてきた特徴のひとつだ。
翻訳によって一部誤解されながら、書簡はソーシャルネットワーク上で叩かれ、書簡の署名者たちは、己の「内に潜むミソジニー(女性嫌悪)」によってまともな思考ができなくなっているとも言われたりする。
「レイプ擁護者」だとか「年をとりすぎて今日の女性問題を理解できない」「恵まれ過ぎている」「60年代や70年代で感覚が止まっている」といった意見もよく聞かれる。
ドヌーヴや『カトリーヌ・Mの正直な告白』で知られる美術評論家のカトリーヌ・ミエは突如として、「恵まれ過ぎで退化したセレブやインテリ」を代表する顔になってしまった。
こうしたセレブやインテリ層は、名もなき多くのレイプ被害者やセクハラ被害者の苦しみにはまったく無関心で、自分たちの「性の解放」ばかりに関心があり、フランス流の男女の戯れを擁護している──。このようにフランスを含む世界の多くの若いフェミニストたちは批判している。
書簡が、女性に「しつこく言い寄る」男性の権利について触れたことは、書簡の署名者たちに不利に働く。この的外れで受け入れがたい一文は火に油を注ぎ、フランス人女性につきまとう偏見を助長してしまった。
「米国の女性は、『フランス人女性というのは男性を喜ばすことを常に自らの喜びとし、男性の気まぐれを受け入れすぎだ』として見下すばかりだ」──シモーヌ・ド・ボーヴォワールが1947年に書いたように。
そうだとすれば、じつに残念なことだ。この書簡はきわめて重要な意見を提起している。ただ、この上なくフランス流に、ではある──いかにも偉そうに、感じ悪く。