結局、言葉にして伝えるしかないですよね、考えも感情も
でも、それは、本当かと思うわけです
言葉にならないものもありそうだけど、そうかな
また、言葉の網の目と思考感情の網の目のサイズは同じなのかと思いますよね
言葉よりも思考感情が繊細で微小なのではないかと思ったりする
また一方で、人間の認識は、言葉で構成されるのであって、
思考感情の網の目のサイズは、ぴったり、言葉の網の目のサイズであると考える人もいるわけです
すると、精神療法の一つの方向は、
思考感情の網の目を微細にして、その一つ一つを名付けることだとも言えるわけです
この場合、精神療法は、無意識を意識化することとも違って、
いままで10センチ四方の方眼紙を使って模写していたのを
1センチ四方の方眼紙を使って模写するようになるわけで
思考感情を、つまりは現実を、精密に見ることができるようになります
しかしここで問題なのは、言葉は必ずしも正確な方眼紙ではなくて、
歴史を持ち、流行に流される、歪んだ方眼紙であることです
歪んだものを精密にしても、意味があるのでしょうか
みんなと同じに思考して感じるという点ではいいのでしょう、確かに
しかし20年、30年と経過して、考え直してみると、
どうでしようか
正確とか精密とかの言葉に意味があるのでしょうか