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語り得ない領域の存在を知っていることと、語り得ることを明晰に語るということ
というあたりは有名であるが
はたして、語りえない領域の存在を知ることはいかにして可能なのであろうか
「知る」ことの意味内容にかかわるのであるが、
言葉が決定的にかかわることが多いだろう
「カーブの投げ方を知る」というなら、言語は関係ないと思うが。
「語り得ない領域の存在を知る」ことと、そのことを言葉で知ることとは、切り離せないような気がする
言葉にしなくてもすでに知っているという場合はそれでよいが
「語り得ない領域の存在を知る」という認識の問題の場合、一種の語りうるものになっているのではないか
だからここでこうして言語化できている
一種の自己言及のパラドックスなのだろうが
いろいろと問題はありそうだ
語りうる領域
語りえない領域と語りうる領域
語りえないと語ることもできない領域と語りうる領域
語りえないと語ることもできない領域と語ることもできない領域
などなど無限に進行する
しかしまあ、だからどうしたということもない
語りえないことについては沈黙せよというのだが
そこでは「それは語りえないことだと理解している」というプロセスが入っている。
少なくとも、それは語りえないことだと語り、沈黙するというのだから、あまり有効ではない。
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