“江戸時代の都市では、死亡率の方が出生率よりも高く、逆に農村では、出生率のほうが死亡率よりも高かった。このことは、農村で生まれた余剰な子供が都市に送り込まれ、そこで命を落とすことにより、全体の人口が一定に保たれたことを意味する。奉公に出た子供たちは、後継ぎや結婚のために都会から村に戻ることもあったが、かなりの割合は奉公先で死亡している。 みなさんの中には、都会に住んでいることに優越感を持ち、農村に住んでいる人々を「田舎者」と軽蔑している人もいることであろう。しかし、こうした価値観は最近のものであって、江戸時代では、エリートである長男が農村に残り、どうでもよい子供ほど都市に飛ばされたのである。 都市は農村よりも人口密度が高い。江戸の町地の人口密度は、1平方キロメートルあたり6万人にもなったと言われている。人口密度が高いということは、それだけ疫病が伝染しやすいということである。日本の人口が、食料供給の限度を超えて増えると、奉公人のような下層階級の人々は栄養不足になり、抵抗力が低下する。しかも、病原菌にしてみれば、人口が増えるということは、それだけ餌が増えるということであるから、人材の在庫が余剰になってくると、疫病の流行により、自動的に在庫一掃処分となるわけだ。 都市には、これ以外にも人口増加抑制機能があった。女の子の場合、都市で奉公をすると、村に帰って結婚する時期が遅れ、たくさん子供を産むことができなくなる。現代と同様に、江戸時代の後期にも、女性の晩婚化と少子化が進んだことが、様々な調査からわかっている。 人口爆発の抑制という都市の機能は、同時代のヨーロッパの都市にもあった。ただ、ヨーロッパ諸国には、戦争や新大陸発見に伴う海外移住等で過剰になった人口を減らすという手段があったが、鎖国をしていた平和な江戸時代の日本には、それらは使えない手段であった。1800年前後の江戸の人口は、 100~120万人程度と推定され、同時代のロンドン(90万人)やパリ(60万人)よりも多い。江戸が世界一の大都市であった理由として、日本人の方が自然の循環を上手に利用していたからだという能力史観的説明が成されることが多いが、日本は、それほどまでに人口増加抑制機能を都市に依存しなければならなかったからという必要史観的説明もできる。”
完全リサイクル都市・江戸