生きることの意味

生きる意味はなにかという疑問に対しては
意味は階層的に存在していると考えたらどうだろう
全ては虚しい
死の後に我々は分子に還元され
土に還る
すべての業績も、所詮は誰の業績でも変わらない
人と人とのつながりも、300年も経てばもう誰も何も思い出さず
むしろ偽りの歴史が大いに語られる
だから全ては虚しく全ては無意味である
この、最上位の意味での無意味、虚無を否定するのは
昔の宗教であって、
それは例えて言えば、子供がサンタクロースを信じているようなものだ
賢明な子供は一度もサンタクロースのお話を現実と信じることはない
物理時な原則から言って全ては無理なのであるから
信じるのは頭が悪いと言わざるを得ない
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次のレベルは、上記を前提として、しかしなお、生きることの意味を見出す、
あるいは、生きることの意味を必死で作り出す営みである
それは認識というよりは行動である
虚無の力は甚大である、それを認めた上で、
それに対抗して、人間の意味を作り出し、生きがいとか、あるいは報われたいとか
愛によるつながりを信じたいとか、必死の営みを続ける
それはやはり意味があるのではないかと感じる
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その努力、営為に対して、どうせ死んでしまえば無でしょう、というのは、
この階層構造を理解していない
全ては虚無である、しかし生まれたからには、それぞれの場所で、努力するのである、
そこに意味が発生し、生きがいが発生し、感動が生まれる、
それを信じるのは、魔法を信じたり、神社のお賽銭を信じたり、パワースポットを信じたりと言った
頭の幼稚な営みとは画然と区別されるべきものだ
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たとえば、猫でも犬でも、意味の創出のために生きているとは思えない
自然に生きて自然に死んでいる
しかしその生きる様子には、
巨大な虚無を否定することもなく了承し、
しかし日々の営みとその楽しみは淡々と享受している
苦しみさえも淡々と受け入れている
だから犬も猫も、巨大な最上位の虚無については同意している
その下位にある日々の楽しみ、食べる楽しみ、散歩の楽しみ、飼い主との遊び、子供を生むことなどは
それはそれで階層の違うものとして受け入れている
何を食べても虚しいとか、どんな遊びをしても無駄だとは思わない
それは階層の錯誤を回避しているからである
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さて、そこまで考えて、結局それはドパミンとかノルアドレナリンの問題ではないの?
と言われると
考えてしまう
現実に喜びがなくても、脳内物質を操作するだけで、喜びの感覚は生まれる
感情は生じても、体験が生じないと言うなら、
体験を生じるところから操作すればよいだけで、
所詮は脳の内部で認識し感じているだけであるから
原則的には可能である
夢を見るようなものだ
そう考えると、生きる意味も脳内物質に還元されるという
素朴唯物論者の論に戻ることになり、誠に素朴な結論となる
それもまたよいことだ