京都大学の給与

 2014年に私が個人ブログで公表した2013年の京都大学での給与明細について、2016年3月以降にいくつかのインターネット記事や掲示板のスレッドが公表されて多くの方々の注目を集めた。
 その過程でわかったのは、現在の国公立大学の状況、特に2004年4月以降の激変後の制度や実態が、大学関係者以外の方々にほとんど知られていないことである。こうした基本的な前提が共有されていなければ、給与の高低だけを論じてみても、それは誤解に基づく意見となってしまう。
 今般、こうした機会を与えていただいたので、社会に対し少しでも情報が提供できれば幸いである。あらかじめ簡単に申し上げれば、現在の国公立大学の制度は、私立大学にかなり近いものに変更されているため、数十年前のイメージで大学を語ると全くの誤解であることが多い。たとえば、私が法学部生であった1990年頃までは、東大法学部教授は週2コマの授業しか担当していないことが多かったが、2015年度の私の授業担当は次のとおりであった(これより多い年もある)。 
<前期>
 京都大学法科大学院 刑法必修科目
 京都大学法学部 刑法ゼミ
 京都大学研究者大学院 刑法ゼミ
 京都女子大学法学部 経済刑法
 名古屋大学大学院留学生コース集中講義 Comparative Studies in Criminal Law
 <後期>
 京都大学法科大学院 刑法必修科目
 京都大学法学部 刑法各論(週2コマ)
 京都大学研究者大学院 刑法ゼミ
 大阪国際大学グローバルビジネス学部 刑法
 すぐ後で触れるように、国公立・私立を問わず、大学では人件費削減が進められているため、少ない教員で多様な授業展開を受験生などにアピールするには、専任教員の負担を増やすか、非常勤講師によって充実を図るかを迫られることになる。どこの大学でも学生のためのサービスを単独で完備することは困難なので、相互扶助のしくみに頼らざるをえない。
 純粋に個人的なことを書かせていただくと、私自身はあまりお金を使わない生活を送っている。日常の買い物は食料品も含めてできるだけ100円ショップですませるようにしているし、外食もほとんどしない。友達付き合いもない。衣服は親族からのお下がりや20年前に就職したときに購入したものが多いし、今仕事で持ち歩いているバッグは大学生協で売れ残って値下げされていた690円のものである。車は持っておらず通勤には6000円の中古自転車を使用している。マンションのローンが残っているが、賃貸の場合よりも月々の支払い額は低くしている。ふだんの出費のうち最大のものは、東京にいる病気の親のもとに毎週通うための往復の新幹線代である。したがって、私自身は現在よりかなり低い収入でも生活できる。
しかし、他のすべての方がそれでよいわけではない。2004年以降、東大・京大を始めとする国公立大学から、有力私立大学への人材流出が顕著に起こっている。その大きな理由が、待遇の格差であると考えられる。最も優秀な学生が集まり、教育環境が良いと考えられる大学から、そうでない大学への流出にも歯止めがかからない。とりわけ、研究・教育のために特別の設備を必要としない専門分野では、流出が起こりやすいといえる。
 2000年代以降、政府支出の削減の波が教育・研究機関にも押し寄せ、国立大学は2004年4月に国から切り離されて「国立大学法人」となった。それまで文部科学省に所属する国家公務員であった教職員は公務員の身分を剥奪され、民間の労働者になった。従来、国の一部として国の資金で運営されていた国立大学は、私大に近い形態で経営が行われることになり、私大がおおむね規模に応じて政府から交付を受けている「私学助成金」と類似する形で、「運営費交付金」という資金を受けることになった。
 現在、私の所属する京都大学では、収入に占めるこの「運営費交付金」の割合は約3割にまで低下している。これは、かつての有力私大における「私学助成金」の割合とほぼ同等である。「国立」大学とは名ばかりで、実際には教職員は公務員ではないし、経営も民間型に変えられてきているのである。しかも、私大でも私学助成金は削減されている。全国の公立大学も国立大学と同様の経過をたどったところが多いが、特定の専門分野の大学を除き、国立大よりもはるかに苦しい経営を強いられている。
 毎年、各社が報道しているとおり、OECDの資料によれば、日本の教育への公的支出割合は加盟国中最下位である。将来の産業競争力を生み出し支える基盤となる教育がこの状態で、国益は維持できるのか。
 毎年大幅な資金切下げを受け続けている国公立大学では、いわゆる競争的資金を外部から獲得するための事務量が膨大になり、授業料もおよそ「国公立」と呼べる金額ではなくなっている。私の所属する法科大学院では、入学料が282,000円で、授業料が年間804,000円。授業料免除や奨学金の制度は十分でなく、これでは優秀だが裕福でない学生が法律家を目指さなくなる。教員の給与以前に、高額の授業料を何とかする必要がある。
 もう1つ教員の給与以前の深刻な問題として、職員の使い捨てと待遇がある。2004年以降、常勤職員は大幅に削減され、従来職員が担当していた作業を教員がするようになり、非常勤職員や派遣職員が重大な職務を任されるようになった。現在、京都大学では、事務職員の大多数がこれらの人々によって占められている。
 そして、非常勤の時間雇用職員においては、経験を積んで高い業務能力を備えた人材が次々に5年で雇用を打ち切られる「5年雇止め」の対象となり、新規の契約では交通費がカットされ時間給にも反映されないという問題が起きている。しかもこれらの方々の多くは、そもそもの年収が200万円台に抑えられている。教員の賃上げどころの話ではない。私は京都大学職員組合の役員をしており、組合が大学法人に対する団体交渉において、こうした方々の雇用継続や、極端な低賃金の是正を優先課題にしていることはいうまでもない。
このままでは国益が維持できない
 そもそも、雇用が確保できるかどうかのところで、労働組合は日々尽力しているのであるが、それと同時に、教員の流出も深刻な問題となっている。私と同世代の他分野の京大教員の中には、アメリカで成功を収めたのにもかかわらず京大に来られたという奇特な方々もおられる。しかし、そのような方のみに頼っていたのでは、教育・研究水準の維持は困難である。
 一般論として紹介すれば、私大のほうが授業コマ数の負担は多いであろう。しかし、京大教員は政府の仕事や留学生の受入れも比較的多い。よく、教員1人あたりの学生数が少ないと指摘されるものの、法学に限っていえば、京大生の定期試験の答案の分量は他大学学生の数倍あり、採点などの指導が必ずしも楽だというわけではない。授業のコマ数負担の相違を考慮に入れても、有力私大との比較では、京大教授の給与は数割低いという評価になろう。
 現在のように教員の流出が続くと、東大・京大では60代前半の有力教授がいなくなってしまい、研究者として円熟期にある人々が後進を育成できなくなる。トップレベルの教授が私大に分散してしまった後は、最高水準の学生は国外に流出するのではないだろうか。これで、国益が維持できるといえるのか。
 現行法上、国立大学教職員は民間労働者と同じく労働契約法の適用対象であり、大学法人に雇用されている。したがって、その給与は労使交渉の中で決まることが原則である。ただし、私学助成金の割合よりは高い割合で国の資金を受けているため、独立行政法人通則法も準用されている。
 同法は、給与が「国家公務員の給与等、民間企業の給与等、当該……法人の業務の実績並びに職員の職務の特性及び雇用形態その他の事情を考慮して定めなければならない」としており、これについての基本方針を定めた閣議決定の解説によれば、「国家公務員との比較に加え、当該法人と就職希望者が競合する業種に属する民間事業者等の給与水準との比較など、当該法人が必要な人材を確保するために当該水準とすることが必要である旨をその職務の特性を踏まえながら説明するものとする」とされている。
画像はイメージです
 つまり、ここにいう民間事業者である私立大学からかけ離れた水準まで「上がらないように」することが求められている。現状はその逆で、私大どころか、国家公務員と比較しても低い給与水準になっている(ラスパイレス指数)。人材流出は教授だけでなく職員においても生じている。
トップダウン式決定はソ連経済への道
 冒頭に述べたように、私自身はより低い給与でも十分に生活していくことができる。人間の価値は平等であり、能力に応じて努力すれば同等の賃金に値するという考え方もあるだろう。マルクス主義経済学の労働価値説は、基本的にそのような発想だと思われる。京大教授の給与を低所得者層の水準と同等まで引き下げよと主張する人は、極端な共産主義者なのかもしれない。
 確かに、生活保障を重視する社会国家・福祉国家をヨーロッパに定着させたことは、マルクス主義の成果だと考えられる。しかし、私は、共産主義経済には反対である。優れた成果を上げてもそれが剥奪されてしまうのでは、成果を上げるインセンティブがなくなってしまうためである。ロシアの産業がいつまでたっても離陸できないのは、計画経済の後遺症だとはいえないだろうか。自由で公平な市場の競争があってこそ、新しい、素晴らしいものが創り出されるはずである。ソ連の芸術やスポーツが優れていたのは、国際競争に勝ち抜く度量の賜物だろう。汚職・癒着の排除と、ボトムアップ式の創造性を伸ばす教育・研究政策とが、日本の国際産業競争力にとって重要である。失敗からノーベル賞級の発見が生まれるような研究条件が保障されていなければならない。
 ところが現在、政府の大学政策は、トップダウン以外認めないとする方向に急速に進んでいる。富山新聞によると、馳浩文部科学大臣は2016年1月10日に同紙本社で、「学長や学部長、病院長などを決める際」の組織内の「意向投票」について、「そんなことをやっている大学を高く評価することはできない」とし、運営費交付金の「配分に関しては厳しく評価する」と述べたという。そして、研究資金の支出については、軍事研究以外には金を出さないというに等しい方針が露骨に示されている。
 一部の政治家やその周辺の人々が限られた知識・能力だけで決めた方針で全体を動かそうとすれば、計画経済が失敗したのと同様に、すべからく学術研究や教育の水準も失われる。それが国益にかなっているのだろうか。人材はますます流出するだろう。2000年代に入ってからは、欧米のみでなく、中国などのアジア諸国でも、国家予算を投じて優秀な人材を国内外から集める政策が展開されてきているというのに。世界は共産主義社会ではないという現実を見る必要がある。
復興財源のための賃下げというウソ
 一部のインターネット記事が誤解を招くような形でとり上げているが、今回話題になった2013年の私の給与明細は、給与の引上げを求めて公開されたものではない。それが出てきた経緯は、私や他の京大職員組合員が大学法人を相手どって提起した、未払い賃金請求訴訟の過程である。
 2011年の東日本大震災の後、政府は復興財源の確保という名目で、国家公務員の大幅賃下げを法律によって強行した。最大1割近い賃金カットが、被災地の被災者である公務員に対しても情け容赦なく行われた。これ自体がすでに疑念を抱かせる。「公務員叩きをしておけば、世論の人気が取れる」との浅はかな計算であったと見られてもしかたがない。
 その後、政府は、国から資金が提供されている団体のうちの一部にも、同様の賃下げを行わせるべく、はたらきかけを始めた。ここで、独立行政法人と、国立大学法人はターゲットになったが、私学の学校法人はターゲットにならなかった。理由は不明だが、「独立行政法人・国立大学法人の教職員はまだ公務員だと誤解されているから、公務員バッシングの対象にしておけば、世論の人気が取れる」と考えたものと疑われてもしかたがない。ともかく、東北大や福島大、筑波大、高エネルギー加速器研究機構といった被災地の法人でも、被災者である教職員の賃下げが強行された。
 だが、これは法的には意味不明な現象であった。法律上、国には大学法人の給与を決める権限がないからである。現実に起きたのは、国が、各法人に交付する運営費交付金をカットしたということであった。そうすると、収入に占める運営費交付金の割合が高い法人では、「ない袖は振れない」状態となり、賃下げを迫られることになってしまった。
 しかし、京都大学はそうではなかった。大学の規模を生かして多額の外部資金を獲得し、預金などの資産を潤沢に蓄積していたからである。それなら、そこから復興財源を提供すればよいので、賃下げの必要はない、と私たち労働組合は団体交渉の場で何度も法人に対して主張した。だが、法人は結局、復興財源を「賃金カットによって」捻出することに固執し、これを強行した。組合の奮闘によって、賃金削減率は国家公務員よりも低くなったものの、最終的な賃下げ率は何と、国家公務員の賃下げ率に京大の運営費交付金依存率を掛け合わせたよりも「高い」率になってしまった。いわば「便乗賃下げ」が行われたのである。
 100名を超える組合員らが、未払い賃金を求めて京都地裁に提訴したが、2015年5月7日に請求が棄却され、現在、裁判は大阪高裁の控訴審判決を待っている状態である。この裁判の過程で私が給与明細を公開した理由は、「本来、法律が、私大に近い給与水準を求めているのに、それが実現されておらず、ただでさえ格差があるのに、それに加えて、私大で求められていない賃下げを強行することは、なおさら法の考え方に反する」と主張するためであった。
 裁判の過程で、次の恐るべき事実が明らかになった。第1に、2013年10月31日に会計検査院が公表した報告書は、2012年度に被災地と直接関係のない事業に振り向けられていた国の予算額が、復興特別会計のうち約3000億円、また復興予算で造成された基金のうち1兆円以上にも上っていたことを明らかにした。被災地向けであった予算で未執行となった分を含めれば、復興に使われなかった額はさらに膨らむ。つまり、独立行政法人や国立大学法人どころか、国家公務員における賃下げも、被災地の復興のためには無用であった。
これほど悔しいことがあるだろうか。真面目に働いて得るはずであった賃金を一方的にカットされ、しかもそれが被災地に届いていないのである。第2に、京都大学で強行された賃下げの率は、教授、准教授、助教と、それぞれに対応する職員との違いによって、分けて決められていたが、その計算式は誤りであったことが判明した(国からの資金が大きく削減されると、賃下げ率が「下がる」式だった)。
 京都地裁の請求棄却判決は、国が賃下げを要請したのであれば財政的な必要性がなくても賃下げを強行でき、その率は誤っていてもよい、とするものであった。これは労働法が存在する法治国家の判決なのだろうか。
 京大賃金裁判の控訴審判決は2016年7月13日に言い渡される予定である。もし勝訴すれば、取り戻した賃金は被災地学生ボランティアに寄付するつもりである。
 私が給与明細を公開した動機は、決して、自分が自由に使うお金を増やしたいということではない。今回、あるインターネットの記事がそのように思わせる記載になっていたため、これを読んだとみられる障害者の方や、退職公務員の方が、真摯な批判のご意見を送ってくださった。この方々が気付かせてくださったのは、国公立大学の最新の状況を社会に広く知らせる必要性である。
 私自身は、繰り返すように、給与が下がっても困窮する立場にはない。だが、国益の維持を図るのであれば、現在の国立大学教授の給与が高いか低いかは、国内・国際の競争の中で、人材を確保できる水準に照らして評価されなければならないと考える。また、法律もその趣旨を規定している。この度の給与問題についての議論の高まりを機に、日々私たちが取り組んでいる労働組合の活動についても、関心を持ち、組合に加入してくださる方の増えることを切に希望する。