こころの奥底にあるもの タルコフスキー「ストーカー」

こころの奥底にあるもの

タルコフスキー「ストーカー」

人のこころの奥底に何があるか、思う。
こころの奥底に何があるか、患者さんの例を挙げることは適切ではないので、映画を例にとる。映画の解説としての正確な表現ではない。記憶の中のわたしなりのストーリーである。
若い頃、タルコフスキー監督の「ストーカー」を見た。当時はストーカーという言葉が現在の「つきまとい、待ち伏せ、押し掛け」の意味はなかったように思う。案内人といった程度の意味ではなかったかと記憶する。
宇宙からある物体が地球に落ちてきた。その物体に手を触れると、その人間のこころの一番奥底にある欲望が現実になると言われていた。人々はその物体に手を触れ、欲望を実現したいと思うが、その物体がどこにあるのか明かではなく、探し当てたどり着くことは容易ではない。そこで人々は案内人「ストーカー」に依頼する。案内人は場所にたどり着く複雑微妙な方法を知っている。その日は物理学者など三名が物体に接触しようとして案内を頼んでいた。困難な道の途中で案内人は問いかける。
「自分のこころの奥底の欲望など実現して何になる?以前案内した兄弟がいた。道の途中で弟はケガをして死んでしまった。兄は嘆き悲しんだ。自分の一番の望みは弟の命の復活だと言った。兄はついに物体にたどり着き、弟の蘇りを祈った。時がたち、弟は生き返ることなく、兄はどんどん金持ちになった。兄は自分のこころの一番奥底の欲望を日々見せつけられる思いだったのだろう、自ら命を絶ってしまった。」
映画としてこの部分が中心ではないと思う。タルコフスキーらしい水の描写とか、精神の敬虔さなどがむしろ話題となると思う。しかしわたしにとってはこの部分が大切だった。

タルコフスキー「惑星ソラリス」

同じタルコフスキーによる「惑星ソラリス」では次のような場面がある。
ある宇宙空間では人間の想念が現実化する。深く愛する妻を亡くした男は妻を思う。妻は現実の存在として目の前に現れる。愛そうとして腰のひもをほどこうとするが、どうしてもほどけない。
なぜなのか。その部分がわたしにとって印象的だった。
最近新しく「ソラリス」が映画化された。興味をもって観た。女優は美しかった。しかしタルコフスキーの描いた問いかけはなかった。

「ソフィーの選択」

映画についてはこんなこともあった。
ウィリアム・スタイロン原作、パクラ監督の「ソフィーの選択」(1982年)の一場面である。魅力的な統合失調症患者、ネイサン・ランドーが同居人ソフィーと友人スティンゴに妄想を語る。製薬会社ファイザーの研究員をしていて、ポリオの特効薬を開発したという。奇妙に興奮した様子だった。スティンゴは疑問に思いネイサンの兄を訪ねる。兄は成功した泌尿器科医である。趣味のいいリビングで話をしていると美しい妻が長椅子の後ろを通って「ちょっと出かけてくるわ」と声をかける。その美しいこと。
あとで友人にそのことを話したら、そんな場面はそもそもなかったという。小説では出てきたかもしれない、小説で読んだ場面でしょう、と。
「それがあなたのこころの奥底にあるものね」。