“
他人にアピールするとか説明するとか文章を書くとか
小さいころから全く縁がなかった人も多いと思う
友人や家族に特に何かでアピールする必要があるのは
リーダーか異議のある人だけ
ついていけばいいだけの人は自己表現なんていらない
ただ従うだけで良かった
むしろ、子供のくせにつべこべ言うのは、大人にとっては邪魔なので、
自発的表現を抑制されることもあったと思う
貧困な環境というものはそのようにして才能を殺してゆくのだと思う
極端にいえば他人に命令するための文章技術だ
リーダーの立場を維持するための文章術でありアピール術である
この欠落は、年をとっても、やはり欠落として残る
悲しいことである
ただ他人に従うだけの人間として親に教育されて学校で教育されると
他人を動かす言葉をなくしてしまう
他人からの言葉を待つだけになる
そしてそれを反復して、親分から見れば、子分の子分を支配するだけになる
つまらない人生であるが
そのような人が多く存在するから人間の社会はおおむね平穏に経過しているのだと思う
やはり、つまらない
しかし小さい頃に刷り込まれた、人間の深いところのものは変わらないだろうと思う
そのような人たちが言葉を使うのは、文学の言葉としてである
それは人に伝え、人を動かすものとも少し違う
端的にいえば言葉にうっとりするためのもので
結局実社会から見れば無害なものである
「文学的うっとり」経路で、連帯ができることも確かなので
そこにも一種のリーダーが発生するが、やはり、実社会の本当のリーダーとは違う
子分も本当の子分とは違う
リーダーからも子分からも落ちこぼれた人たちの場所が文学なのだと思う
サルトルが言ったように文学は無力なのであり、一方、
文学の擁護の側では、だからどうした、現実に無力でもいい、そんなことは私の文学には関係ないというだろう
最近は文学が商売でしかないことが明白で
ますます言葉が無力になっている
ーーー
こういう観点からは、入学試験で小論文を課して評価するのは、それなりの意味があるのだろうと思う。
育ってきた環境をある程度測定できる。
“