精神医学における質と量の問題

精神医学における質と量の問題
精神医学における学問的問題の一つは
精神医学の症状や原因の(functionとstructereといってもよいと思う)
質的問題をどのようにして量的問題に転換し
従来の数学が使えるようにするか、である
それがなかなか難しい
測定して量的問題に転換しない限りは数学が使いにくい
質的問題のままで数学を使う方法もあるのだろうが
発展は限定的だろうと思う
たとえば海馬の体積を測定する、脳波の分析をする、部分の血流を測定するなどは
野球で言えばストライクゾーンを振っているとも思えないが
始まりとしてはそんなものだろうと思う
虹は七色か五色かといっても
色を量的に測定してみればそれが連続的に分布しているだけだと理解できる
しかしながら現在の数学的な理解の範囲では
神経細胞の活動から自意識の発生を理解することは難しいように思われる
このあたりもなにか新しい数学が必要なのかもしれない
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例えて言えば、
ミケランジェロとモネとピカソと、などを並べてみて、
その鑑別のポイントを文章で述べることを考えてみれば良いと思う
なかなか難しいだろう
多くの絵を見てくれば、それらの絵の質的な違いは理解されるものだと思うが
それを短い文章で定義することは難しい
絵を文章で定義することはそもそも有効なのかとの疑問がある
しかしなぜか知らないが短い文章で定義しようとする人は多い
その違いは自分にも分かるものだと単純に考えている人も多いと思う
ミケランジェロとモネとピカソの違いは単純で明白で誰にでも分かるとも言えるが
それを他人にも伝えることは簡単ではないし
たとえば子供に簡単に教えることも難しい
バッハとショパンとムソルグスキーでも良い
徒然草と井原西鶴でも良い
分かるけれども言葉で定義しにくい
それなのにあえて単純に言い切って広めようとする人もいて
それを信じて自分や他人の精神症状を定義してしまうことになれば
一体何をしているのかよく分からないことになる
そうなると良心的な人たちは発言を控えてしまうし
関わり合いを避けてしまうだろう
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自分なりに理解はできるし、専門家同士で共有はできるが
それ以上何かを言おうとすれば誤解されるだけだろうと絶望し
何も言わなくなってしまう
たとえば数学を理解することは難しいし楽器を演奏することも難しい
それなのに誰にでも理解できるし誰にでも演奏できると単純に考えている人に対しては
沈黙するしかないのだろう
それは理解できるような気がする