“ 世界一短い小説については諸説あるが、ヘミングウェイが句読点を含んでわずか6語で書き上げたものが最短であろう。 For sale: baby shoes, never worn. わずかこれだけである。 日本語に訳すとこうなるらしい。 「赤ちゃんの靴売ります。未使用。」 しかしこれだけの文字が、読む人の想像をいろいろとかきたてる。現代日本であれば「誕生祝をもらいすぎちゃって、余ったから」もありうるが、第一次、第二次世界大戦下を生きた彼の時代を考えると、生まれてしばらくして死んだ赤ちゃん、の存在を想定せざるを得ない。そもそも「新品」とは書いていないのだ。「未使用」。newにすればさらに1語減らすことができる。しかしnever wornとすることにより亡くなった赤ん坊、そして辛い思い出を忘れようとする両親を想起することができるのだ。そしてこの6語自体は、多分バザーに並べた品の説明なのだろう。 「この靴、いただけますか」「どうぞどうぞ。お子さんがお生まれに?」「ええ、、、ひょっとしてあなたは」「残念ながら」「お気の毒に。うちの子が靴を履いたところを一度ご覧になりますか?」なにかこんな会話が続きそうだ。 それが縁で付き合いができて、やがて今度生まれた子供は元気に育って、靴を買っていった子と遊んでいる、そんな光景すら想像できる。never wornという表現の寡黙さは、悲しみとともに、いつかは幸せにね、という願いすら喚起するもののようだ。 また、この小説の呼び起こす感覚は普遍性の高いものらしい。なにしろ現代日本でもこの小説の続きは語られているのだ。 「お年玉です。伊達直人。」 孤児院に匿名で贈られたランドセルに添えられた短い手紙だが、これについてもヘミングウェイに対してと同じような感情を呼び起こされる。死んだ子どもの年を数え、そういえば今年は、と気が付いた、そんなとき近所の孤児院が目に入ったのだろうか。あるいは送り主自身、孤児で寂かった気持ちを思い出したのか。 しかしながら、これは小説ではない。「お年玉です。伊達直人」という文字だけでは伝わらないことが多い。ランドセルの画像が必要になる。また孤児院の前に置かれたという場所が提示されなければならない。伊達直人がタイガーマスクの正体という知識がないと効果半減である。 つまり前提が多すぎるのだ。だからこれは小説ではなくむしろ「自由律俳句」と言った方がよかろう。「伊達直人」は本歌取りのようなものと解釈するのが妥当か。積まれたランドセルの写真の反歌、と考えれば立派な詩である。 冒頭のヘミングウェイのほかに「最短の小説」の候補として、日本の短編小説の代表者、星新一が紹介し、インスパイアされて本一冊分の小説を書いてしまった 「地球最後の男が部屋にいた。そこにノックの音が……」 というものをあげることもできよう。しかし、これは星新一自身書いているように「怪談」である。それは怪談も立派な小説である。しかしこれでは「落ちはなーんだ」と問うているように見える。だから読者は「クイズ」と受け取ったようだ。代表的な答えは「それは地球最後の女だった。」これではヘミングウェイと比べるわけにはいかない。 ヘミングウェイがこの世界一の短編小説を書いたのは、6語で小説が書けるか!と賭けを持ち込まれての返答らしい。私はこの賭けの相手も評価したい。負けたくないという理由で笑い飛ばすことも可能だったはずなのに、潔くこのバザーの出品説明を小説と認めた。6語の中に小説を認めたこの人の感覚は見過ごしてよいものではないと思う。 なぜ認めたか。それはこの6語が強烈なイメージを喚起したからだ。自分の中から物語を引き出したからだ。だから、この小説はすべての小説家、読者、および小説家志望の人間に「小説が小説であるために必要なことは何か?」を提示したのだ。 後年ヘミングウェイがこの6語の小説を「自分の最高傑作だ」と言ったのは、もちろんジョークだろう。しかし彼が本作品を書き上げ「よし、この6語は小説になった」と確信したときの小説家としてのアイデンティティの高揚、これはひょっとしたら生涯最高の興奮だったかもしれないという気はする。すくなくとも1語のあいまいさも含まない完成度を達成した満足感は絶後のものだったろう。 「服」ではなく「靴」だからこそ、生まれてしばらく元気だったことがわかるのだ。喪失感を醸し出すためには、not wornではだめなのだ。neverでなくては。”