“大学に入って、はじめてまともな体育の授業を受けた。入学生全員に運動能力テストなるものを課し、その結果が一定レベルに達しない学生には、『トレーニング』なる恐ろしげなクラスを受講させるのだ。 このトレーニング・クラスは、わたしがそれまで受けた中で別格、いや、次元が違うくらい、まともな体育の授業だった。まず、教師の説明が科学的だった。トレーニングの内容は、小さなダンベル(重量がkgで表示されている)をつかったウェイト・トレーニングに始まり、ついで全身を使うサーキット・トレーニングが加わる。学生は各人、硬い紙のスコアカードが渡される。それに毎回、自分のスコアを記録して行く。たとえば右手にダンベルを持ち、右肩の上において、肘を伸ばして持ち上げる。その単純な、要素的な運動を、何回やれるか記入していく。 教師のインストラクションは、こうだった。「もし君らが、8回未満しかその運動ができなかったら、それは負荷が重すぎるのだ。そのときは、1kg軽いウェイトを使え。また、逆に16回以上その運動ができた場合、負荷が軽すぎる。だから1kg重いウェイトを次回はトライすること。重すぎるウェイトで無理を続けてりしてはいけない。それは筋肉にむしろ障害を与える。軽すぎる負荷では、もちろん筋力の向上にはつながらない。」 そしてまた、こうも言った。「こうしたトレーニングのための運動は、週1回では足りないことが統計で明らかになっている。7日たつと、獲得された筋力がもとに戻ってしまうのだ。週2回やれば、筋力は維持される。だから本校の体育の授業は教養過程の間、週2回に設定している。」 そして極め付けは、これだった。「諸君は別に他人と比べる必要はない。各人の運動能力はそれぞれ別で、個性があるのだ。だから、過去の自分とだけ比較して、向上を確認すればいい。」 実際、毎週同じトレーニングを続けて行くうちに、少しずつだが自分のスコアは着実に上がって行った。それは、とても喜ばしいことだった。自分にも運動面で向上する余地が、あるいは可能性があるのだ。トレーニング内容は少しずつ組み合わせで複雑になって行ったが、プログラムが緻密に設計されているため、ついて行くことができた。何より、他人と比較されて、劣等感を感じずに済んだ。それは、生まれてはじめての事だった。 そして逆に、それまで10年間受けてきた体育は、いったいなんだったのか、と思わざるを得なかった。運動部の、ほとんどプログラムも設計もない、ただむやみなジャンプやダッシュや筋肉運動の数々。そして体力をつけるため「体をいじめる」という、不可思議な観念。それは単なる精神主義の産物ではないのか。こうしてスコアに記録して数値化し、それを集めて分析し、さらにプログラムの設計を向上させる、という科学的発想はどこにも見られなかった。だが、あきらかに体育は科学の対象なのだ。目から鱗が落ちる経験とは、まさにこのことだった。”