理性の限界

理性の限界がずっと長いこと議論されてきて
結論もかなり分かりやすく一般の人にも理解できるように説明されているようだ
理性の限界とか進化論の限界とか無矛盾の数学体系の不可能性とか
もっと端的に言えば白人が続いてきた、進化の先端にある、理性の営みの限界点
19世紀的な前提が次々に否定される状況で
やはり考えたいのは次のようなことだ
理性の限界は我々の日常生活とどう関係があるのかということだ
日常生活では論理学はだいたい正しい
ニュートン力学も非常に役に立つ
アインシュタインは知らなければ知らなくていい
満腹になったり病気を予防したり、そんなことのためには
相対性理論も要らないし
量子力学も要らないと思う
肉眼で見て、自分の筋肉を使う、そういうスケールで考えると
理性は有効だし矛盾も特に感じない
それなのになぜことさらに理性の限界などを論じて
得意になっているのだろう
理性にはそういう部分もあるということで十分なのであって
その点ではプラグマティズムで良い
論理実証主義でなくて良い
役に立つ確実な部分だけ使っていれば良いと思う
そして、ただし、このへんは危ないなと知っていればそれでいい
理性が有用であるという場合
たとえば、気象予報は完全予報は無理だけれども、70%程度は信頼できるといういみでの限界と
ゲーデル的な意味での限界を
区別する必要があると思う
そして
理性には限界があるという理性による言明には自己言及が含まれている
明日は雨になるだろうという言明と
私は嘘つきであるという自己言及の言明とは性質が異なる
普通の生活をしている人にとっては
私は嘘つきであるという人の話にまともに付き合う必要はないのであって
注意深く回避しているばそれで十分である
理性には限界がある、たしかに限界はあるだろうが、
そのような極限の精密さを一体、生活のどんな場面で要求するというのだろう
相対性理論や量子力学の現代版の研究者が、家に帰ると、完全に19世紀的な家族の感情問題に翻弄されている
この進歩の無さはなんだろう
たとえば、理性には限界があるという理性の自己言及的言明は、
我々末端の理性としてはどう理解したらいいのだろう
それは自己を内側から探求して結論した言葉なのだろうか
あるいは自己の外部から眺め観察して得られた言葉なのだろうか
自分を否定する言葉は
自分の外部的な視点を持ったときに有効に発信できるものだと思うが
それでは理性の外側に立っているのだろうか
おおくの著名な哲学者が
おそらく、理性を否定している言明は、理性ではなく、理性の外側の何かの発言であると論じている
それが何であるかを明確に定義する段階ではないが
理性の極限ならばすでに人工知能が存在しているという事情も関係しているだろう
中にはロマン主義的な感情から理性の外側発言をしている人もいるだろう
私は嘘つきであるという言述と
理性には限界があるという言述と
同型なのだろうか
私は個人的には難しいことはわからないし
自分に必要な範囲で言えば
理性に裏切られたこともない
進化が与えてくれた必要十分な真理だと思う
それで十分
そして人生は、理性の本質がどうであっても、
喜怒哀楽を我々に届けてくれる
それを味わうことで十分である
理性の限界は
ニュートンやアインシュタインの限界でもあるが
同時に
ダーウィンの限界でもあり、
マルクスの限界でもある
そしてフロイトの限界でもある
(マックス・ウェーバーをこの中に入れる人もある)
自然科学の限界でもあり白人文明の限界でもある
総じて言えば数学の限界である
相変わらずそういう話が好きな人がいるんだなあと思うだけだ
現在の数学に根本的な矛盾があるなら
無矛盾の数学を作ろうではないかという
根本的な志に驚く
そして結局自己否定に行き着くその真摯な態度に驚く
正直で誠実だ
そうした営みは全体として理性の営みなのだろうか
それとも理性の外側の何かも作用しているものであろうか
理性が自分を否定しているという構図をやすやすと信じることもできないような気がする