鎌倉の、中世から近世にかけての境界

“僕は鎌倉が好きで、ここ数年折りにふれて鎌倉を歩いて来ました。その鎌倉の、中世から近世にかけての境界に目を凝らしてみると、非常に面白いんですね。ちょっとそれをお話してみます。
 鎌倉の北の方の出入口に、化粧(けわい)坂という坂があります。歩いたことのある方はわかると思いますが、何の変哲もないただの坂なんですけれども、そこには興味深い幾多の歴史が埋もれています。その化粧坂周辺には、かつて中世には遊郭があって、遊女がたむろしていた場所であるといいます。あるいは記録によれば、この坂の周辺に、市つまり交易の場所が設けられたともいわれています。
 また、『太平記』などに出てくるんですが、ここはよく知られた処刑場でもありました。日野俊基という、後醍醐天皇の寵臣であった人が捕まって鎌倉に護送されて、この化粧坂の上で首を切られているんです。
 あるいは、中世の鎌倉に特有に見られるお墓に「やぐら」というのがありまして、岩肌に穴を開けて作ったお墓なんですけれども、この「やぐら」と呼ばれるお墓が、化粧坂の周辺には集中的に見られるわけです。
 つまり、中世鎌倉には七つの出入口があり、化粧坂というのはそのひとつなんですが、そこは遊女、つまり男と女の交通を象徴するものとか、あるいは、処刑とか死という意味で生と死の相交わる光景とか、あるいは交易つまり物の交換であるとか、そういうさまざまな意味での交通の接点、コミュニケーションの接点になっていたのが、境界としての坂であったわけです。
 そのけわい坂というのは、化粧の坂と書くんですけれども、化粧っていうのはもちろん、変身つまり姿形を変えることを表わしています。あるAという状態が、Bという状態に移行する、変化するということが、「けわい」=化粧であったわけです。交通の結節点である「化粧坂」という名前が冠せられていることは、ひとつの象徴的な意味を持っていると思います。(中略)
 さらに、鎌倉の坂をいくつか辿ってみます。巨福呂(こぶくろ)坂という、鶴ヶ丘八幡宮の裏手の坂なんですが、今はもう廃道になっていて、通ることができない坂があります。その辺りも中世の記録を見ると、やはり屍体が捨てられる場所だったらしいですね。この坂で下級の僧侶が、屍体の肉を切り裂いて、懐に仕舞いこんでいるのがみつかった、という現実か空想か判別しがたいスキャンダラスな記録も残っているのです。巨福呂坂という坂も、死の穢れの満ちる場所だったんだろうと思います。
 それから、僕が鎌倉の境界のなかで一番印象深くて好きな所に、名越坂という坂があるんですが、この名越坂も生と死の風景の垂れこめている、ちょっと不思議な場所なんですね。そこにもやはり、「やぐら」というお墓がたくさんありまして、その頂上あたりに「まんだら堂跡」があるんですが、そこに行くと、春から初夏にかけての花の季節には、色とりどりの花々が咲き乱れて、なかなか幻想的な雰囲気の漂う場所です。その花の咲き乱れるなかに数も知れぬ「やぐら」が口をあけていまして、そこには小さな五輪塔がいっぱい並んでいるんです。その前の平場を掘ると、白骨がいくらでも出てくるというような話も聞いたことがあるんですが、その、名越坂というのもやはり、たいへん死の風景の色濃く垂れこめている場所であるということですね。”
「境界喪失――または闇の不可能性をめぐって」赤坂憲雄