怒り

むかし家庭教師のバイトしてた。男子中学生の。あまり頭がいいほうじゃなかった。なんとか丁寧に、一生懸命おしえてた。その子も頑張って理解しようとしてもうまくできなくてイライラしちゃうみたいだった。
それでもわかってもらおうとこっちも熱を帯びてきてた。熱心に説明してる途中でその子が、
「ああ。もういいから。」
って吐き捨てるように言った。
 その瞬間。体の組織ぜんぶが金属に硬化したような息苦しい圧迫されるような感覚に全身が襲われて、経験したことない怒りに突き上げられた。今思うとあれは、血圧が急激に高まったんだと思う。
 一方で怒りを覚えて、他方ででも冷静に(これはやばいな)と思ってた。(これ、今ほんの少しでも口を開くなり動くなりしたら、もう次の瞬間本当に相手を殴りつけてる)と全く疑う余地なく確信してた。それで、ものも言わず、目をつぶって、微動だにせず、20秒か30秒くらい待ってた。
そうすると少しずつ金属みたいな硬化が解除されていった。そして、
「どうしたの?」
と少し心配そうなその子の声が聞こえて、ゆっくり目を開いて、ちょっと休憩しようと提案できて、なにごともなくなった。
 イライラするとか、腹が立って声を荒らげるとかいう経験は何度もあるけど、あんな怒りなんて存在も知らなかった。あれ以来、一度も経験したことがない。本人の形質にもよるんだろうけど、一生に一度あるかないかくらいのものかもしれない。
 あれは抑えられるとかそういうものじゃないと思った。精神力がどうこうとかじゃなくて、シンプルに生理的な反応だ。あのとき自分はなんとか過ぎ去るまで待つことができたし、あれ以外の対処法はたぶんない。もしあの子が火に油をそそぐようなことをあの間に言ってたとしたら、たぶん僕は大声をあげて殴りつけてたと思う。
 ああ、殺意っていうのは、あれのことだったのかと、後から思った。だとしたら、人を殺してしまうというのは、わかると思った。
カレー捨てられて殴り殺すの、マジわかる