だから、「嫌いな人」と付き合ってはいけない。

“今日のお題は「嫌いな人とのつきあい方」について。
嫌いな人とは付き合わない、というのが私から学生諸君へのアドバイスである。
つねづね申し上げていることだが、そばにいるだけで疲れる人、こちらの生命エネルギーが枯渇してくる人というがたしかに存在する。
そのような人間とも「共に生きる」というのはなかなか立派な心がけであるが、「共に」というのにはかなり解釈の幅があるわけで、必ずしも「べったり一緒 に」という意味ではない。適正な距離を置き、できるだけかかわりにならない「共に」というのもだって「あり」だと私は思う。
「鬼神は敬してこれを遠ざく」と孔子先生も教えているとおりである。
おのれの力量をわきまえ、限られたリソースを配分する優先順位をよくよく考え、その中でのベスト・パフォーマンスをどうやって達成するか、それを考えるのが人間の仕事である。
「できないこと」をやろうとしても仕方がない。
「嫌いな人間とつきあう」というのは「できないこと」の一つである。
それを無理矢理やろうとすると、どこかに破綻が生じる。
それほどドラマティックな破綻ではない。
「嫌いな人間」を我慢して、「この人にもそれなりにいいところがあるんだ」とか、「嫌いな人間を我慢して受け容れることが人間の度量なんだ」とか自分に言い聞かせ続けていると、「何かを嫌う」という感受性の回路が機能を停止する。
だって、我慢している状態を「我慢している」と絶えず主題的に意識していたら、つらくて心身が持たないからだ。
これは我慢ではない。私は平気だ。私は何も感じない。
そうやって自分自身を騙すことなしには、我慢は続かない。
だが、恐怖と嫌悪は生物の生存戦略上の利器である。
「嫌う」回路をオフにするということは、コミュニケーション感受性をオフにするということであり、それは思っている以上にリスキーな選択である。
環境から発信される無数のシグナルのうちから「恐れるべきもの」「厭うべきもの」をいちはやく感知することで、生物は生き延びているからである。
その回路をみずから進んで機能停止にするということは、リスクにたいするセンサーを「捨てる」ということであり、生物学的には「自殺」に等しい。
「我慢する人」は、日々のコミュニケーションの中で行き来する非言語的シグナルの多くを受信できなくなる。
「こんにちは」という挨拶ひとつでも、それが儀礼的なものなのか、愛情や敬意のこもったものなのか、憎悪を蔵したものなのか…それを表情や速度や発声や姿勢から見分けることができなくなる。
「話の通じないやつ」「場の読めないやつ」というのは、要するにコミュニケーション感度の低い人間ということなのである。
コミュニケーション感度は生得的なものではない。
人は「イヤな仕事、嫌いな人間、不快な空間」を「我慢する」ために、みずから感度を下げるのである。
だから、「嫌いな人」と付き合ってはいけない。”