日本の男性は急速に幼児化している

日本の男性は急速に幼児化している。
これは動かしがたい事実である。
男子を成熟に導く「通過儀礼」的な人類学的装置が根こそぎ失われたためである。
30年ほど前までは左翼の政治運動というものがあり、これがいわば本邦における最後の大衆規模での「通過儀礼」であったかに思う。
当否は別として、左翼の政治運動はその参加者に「子ども時代の価値観を全否定すること」を要求したからである。
ところが現代では、うっかりすると「小学生時代の価値観」をキープしたまま中高年に達するものさえいる。
日本の男子が血肉化してる「小学生時代の価値観」とは「競争において相対優位に立つことが人生の目的である」というものである。
これまでも繰り返し説いてきたことだが、「同学齢集団のコンペティションでの相対優位」が意味をもつのは、「ルールがあり、レフェリーのいる、アリーナ」においてだけである。
例外的に豊かで安全な社会においては、「競争に勝つ」ことが主要な関心事になることができる。
しかし、人類史のほとんどの時期、人類は「それほど豊かでも安全でもない社会」を生き延びねばならなかった。
そういった状況においては「競争において相対優位をかちとる能力」よりも、「生き残る能力」の方が優先する。
「競争に勝つこと」よりも「生き残る」ことの方がたいせつだということを学び知るのが「成熟」の意味である。
意識の成熟度を犯罪を手がかりとするというのも
正しいことかどうかわからないが
その方な方法もあるだろうと思う
幼形成熟が進化の方向だと考えれば
女は
お尻の小さいままでおとなになる
親に依存したままでおとなになり
おとなになってからは女に依存する
自己中心を最大限実現しようとする
仕事は
勤勉を旨とする勤労観を捨て
一攫千金をめざす
子供は当分要らないが
ぎりぎりになったら
仕方なく計画する
子供ができたら男はもう一度子供になる
ある場合には母親になる
父親はどこにもいない
あるいは新しい父親がいる
星一徹は昔話である
他者視点の獲得が成熟の一つの要点ではないか
その点で自己愛性人格は成熟拒否、幼形成熟である
また「普遍」を獲得することもまた、成熟の一つの要点である。
普遍の典型は論理である。
しかし最近では政府答弁でさえ、論理を軽視して、あるいは無視して、
あるいは意識できず、大人とはいえない状況である。
国旗を背にして、自分に都合のいいことだけを質問する記者団を前にして、
いい気分で、脱論理を展開して、恥ずかしげもない
彼が気にしているのは狭い仲間内での評価だけである
「神」と出会っていないというのも、子供の一つの指標である
神がなければ倫理もない
「あったことはなかったことにできない」というのが、神と出会ったあとの、大人の思考。
「都合のいいように嘘もつき、人の口を塞ぐ」というのが未成熟。