しかしだからといってそのことが
アニミズム的な心性への逆流を正当化するものではない
そんな中で
宗教の在り方も問われていると思う
一面では、物理学全体の営みは、神なしで世界をどこまで説明できるかの、
理性主義の挑戦である。
極微の世界で量子力学、宇宙論の世界で相対性理論、
大抵の人間には、具体的なイメージが湧きにくく、数式での議論になると思うのだが、
それでも、理性主義による説明の極限を追い求めている。
その方向で最大限成功したとしても、
「神なし」でも説明できましたと言うだけで、「神」を否定できるわけではない。
理性主義による説明が不可能であるとしたら、
それは理性が不完全だからか、あるいは、神なしの説明は不可能だからかの、いずれかになるのではないか
理性主義の説明は失敗を露呈したのではなく
今のところまだ不完全だと言うだけで
将来は完全な説明が見つかるだろうという「見込み」で努力している
見込み唯物論というものである
心の説明で、自意識の発生についても、この見込み唯物論が説明に用いられることがある
何の説明にもなっていないのだからそんな説明はやめて
現在のところ不明であると言ってしまえば良いと思うのだが
たぶん、唯物論への不信感を増幅するための論なのだろうと思っている
理性主義的説明が完結したとして、
それは世界の説明の正確に半分であって
あとの半分は神の登場する説明である
現状で、理性には限界があるだろう
しかしそのことを論じるのもまた理性なのであって
おかしな自己言及が発生している
もう一度宗教を問い直し、
理性主義の全体を包含する、そして超越する、
理性主義と何の矛盾もない、宗教が構想されるべきだと思う
そうでなければ、人間がなぜ生きるか、どのように生きるのが良いのか、苦しみには何の意味があるのか、
死んだあとどうなるのか、そういった宗教の原初的な問に答えようとして
先祖返りしてしまうのである
そしていかさま師がおかしな踊りを踊り
混乱を生じさせる
もうそんなことで時間を費やしていないで
理性主義の全体を包含する、そして超越する、
理性主義と何の矛盾もない、宗教を構想したいものである